珍しく、目の前の男は甘いモノを口にしながら。俺の話を無表情に、無感動に聴いていた。

相も変わらず人形のような風貌は、見慣れたはずなのに気を抜くと見入ってしまいそうになる。金色にも見える、猫のような、それでいて爬虫類を連想させるような血の色を感じさせない瞳がちらり、と俺を見据えた。

この瞳が赤く輝いて、揺らめくことを知っている。
この瞳が簡単に日常の境界線を飛び越えてしまうことも知っている。

何より、この男の存在自体日常とは言い難い、曰く人ではないような雰囲気すら持っているのだから。

忌野はその面になんの感情も写さないまま、俺の方に包みを向ける。
そこには色とりどりの金平糖が、柔らかい和紙に包まれていた。その酷く懐かしい砂糖菓子を掌で受け止めて、包みを返す。
洋菓子よりかは和菓子の似合う男ではあるが、こうゆう昔菓子も酷く似合った。
現代人というよりかは、非現実的なハナシではあるけれどタイムスリップしてきた侍のようにも見えるからかもしれない。現代のものより、歴史のあるものの方が、この男にはしっくりくる。

 

「…で?何が言いたいんだ?結局」

 

単調な声は酷く硬質的で。
慣れている筈の俺ですら、ぞくりとさせる。

この男の持つ独特な間合い。
そして発される空気。
それらが、全てを呑みこむのだ。

俺は知らずに息を飲んで、そして呼吸を整えた。

 

「いや…その時お前を思い出したんだ。

 お前は境界線を踏み越えた存在だった、ということに」

 

忌野はほんの少し、笑う。唇の端を微かに上げて。
そこに写された笑みは酷く酷薄な色を持った、嘲笑だったけれど。

 

「今更だな。風間。私は忍びなのだよ」

 

そう、なのだろう。

忍者なんて時代劇の中でしか見ないと思っていたのだけれど現にこうやって現存している。
そしてその存在は闇の中で、生き永らえて今尚境界線の向こう側を闊歩している。
忌野の言葉を借りるとすれば、その存在は社会の澱のようなもの。それでいて、あらゆる情報に長けて暗躍し、法治の元それを嘲笑いながら享受するのだ、と。
忍者の家によって、得意とする能力は違うが溢れる情報を操り、操作し、そして回収出来る収集能力と、暗殺を筆頭に持てる暴力の全てを使うことのできる集団。

それが忍びなのだ、と。

アメリカでいえば、CIAのような存在だ。

聞いた時は、まるで映画か何かのようだ、と現実離れした御伽噺を聞いた気分になったものだが、付き合いも長くなってくるとその片鱗を覗く羽目になることもあり、今ではそれを肌で感じざるを得なくなった。


 

「忌野…お前は。

 人を殺したことはあるか?」


 

それは、今まで俺が敢えて口にしなかった言葉。

暗黙の了解で、触れなかった部分。

踏み込むべきではないと判断し、そしてまた忌野から踏み込むな、と拒絶されていた部分。口にしたわけではないけれど、そこにある確固たる拒絶は読み取ることは容易であったし、またそこに踏み込んでしまえばきっと何か変わってしまうような気がして。
今まで、時間をかけてやっとここまで築き上げたものが、変容してしまうような気がして。


踏み込めなかった部分。

踏み込まなかった部分。

 

だが、今回こんなことがあって。

俺自身、その境界線の向こうを感じることが出来た。

今まで、見ようとしなかった。目を敢えて閉じていたものを、見させられたことで。
理解は出来ないけれど、それでも感じることが出来た分。その場所に立っているこの男を、今までよりも理解出来るような気がしたのだ。
相も変わらず俺はこの男を支えることなど出来ないのだけれど。それでもなんとか、少しでも理解出来れば良いと思っていた。
おこがましいと一蹴されてしまえばそれまでの、独りよがりなのかもしれないけれど。

それでも。

俺は、この男の周囲の空気を感じた気がしたのだ。

 

忌野は何も言わずに。

その白い指に金平糖を摘まんで、形の良い唇に運ぶという動作だけをただ繰り返していた。
カリリ、と小さな音だけが漏れる。
まるで人形のように、何度となくそれを繰り返し。

そして。

 

「甘い」とだけ言葉を漏らした。

 

「そりゃあそうだろう」

俺は言葉を拾って笑う。
重くなりかけていた空気が、俺の笑い声でほんの少し晴れた気がした。

 

「言いたくなければ言わなくてもいい。ただ、俺はお前のことが知りたいだけだ」

 

机の上に零れ落ちた金平糖を摘まみあげ、それを口に運びながら。その甘さに酔うように、俺は言葉を落とす。

忌野の瞳が微かに揺らいで、俺を見つめていた。

何処までも自分に自信がある男は、どこまでも自分に自信がなくて。
その瞳には強さと弱さを同時に写すことすら可能で。
その不安定で相反した色に、人は居心地の悪さと同時にどうしようもない程魅了されるのだろう。

 

指が、宙を舞って。

そっと、金平糖を拾っていた俺の手に触れる。

 

白い手袋に包まれたそれは、嫋かにすら見えた。

 

実際の素肌は、長年培った剣技によって武骨に歪んでいる。

幾重の傷を重ねたその拳を、俺は知っている。

なんの苦労もなく君臨しているように見える、この男がどれだけのモノを犠牲にしてそこにいるのか。それは想像するしかないけれど、それでも俺は知っている。

削り落せるもの、全てを犠牲にして。

または削り落せないものすら犠牲にして。

そうやってこの場所に立っていることを、俺は知っている。




 

 

「私が初めて殺めたのは…父なのだよ。風間」

 

 

ぽつり、と。

その言葉は。

波一つない湖面に石を投げ込んだように。

無粋な程の細波を立てて、そこに落ちた。

 

「初めて人を殺めたのは、私が12の頃。父が目の前で腹を斬り、それを介錯したことが初めだ」

 

忌野は俺の手に触れたまま、その顔には微かに笑みさえ浮かべながら。

しかしその指先は微かに震えていた。

 

「お前は境界線の向こうという。だが、私からすれば、境界線など存在しないのだよ。

 それが日常。お前達が言う非日常が、私にとっては日常で。

 境界線など親切なモノは存在せずに、ただ地続きに続いている世界に過ぎない。

 朝起きることも。こうやって学校で学業に専念することも。お前とこうやって話すことも。食事を取ることも。人を殺すことも。

 命を狙われることも。全く同一線上に存在する、ありきたりの日常のひとコマに過ぎない」

 

忌野はそう言って。

触れていた指に、ほんの少しだけ力が籠ったのを感じて。

俺はその指を繋ぎ止めようと、空いている方の手を伸ばすけれど。

 

俺が摑まえるよりも先に、その指は俺の手から離れてしまった。

 

触れていたその部分に、幽けき余韻を残して。

 

「…忌野…」

 

「お前は私を理解したい、という。だが私はお前に私を理解して欲しいなどとは思わぬよ。

 理解など、要らない。

 お前はその立ち位置にいてくれればそれでいい。

 お前の立ち位置さえ変わらなければ、私は自分が何処まで行っているのか解るから。

 どれだけ自分がずれているのか。歪んでいるのか解るから。

 

 お前はその場所から動かずに、ただその場所で、お前であり続ければよい」

 

いつになく饒舌に。忌野はそう言って。

嘲笑とは違う、忌野独特の。
本当に酷薄なまでに美しい笑みを、その面に浮かべて見せた。

 

忌野の申し出はとてもありがたいものなのだと思う。
この男にそんな風に言われる為なら、何物も厭わない人種が数多くいることも知っている。
しかしその申し出は…

正直、辛い類のものだ。

 

この男は自分を認めてはくれるけれど、決して自分の側に寄せてはくれない。

近づくことを良しとしない。

それでいて、こいつから俺の方へ来ることもない。

その場にいてくれればいい、と言ってくれるが。実態はその場にいるしかない、が正解だ。

動きようがない。

 

歯痒い。

 

こうやってこいつは、自分の傍から大切なものをどんどん遠ざけて。

何処までも弱みも、甘えも排除して。

ずっと独りで立ち続けるのだろう。


そう、独りで。

 



「それで…俺はこの場所でお前がどんどん遠くに行ってしまうのをただ眺めてろ、て言うのか?」



 

俺の手は届かない。

救うことなど出来やしない。

しかしまだ声を届けることは出来る。

こうやって向かいに座って、会話をすることは出来る。

だが、このまま距離が広がれば、そのうち声すら届かなくなるだろう。

そう、声ですら。

そして最後はきっと。

 

姿を見ることもなくなってしまうのだ。

 

正直、この男がこの学校を卒業してしまえば、その後はどうやって会えばいいのか見当もつかない。

 

そう。カウントはもう始まっているのだ。

 

忌野は笑みを浮かべたまま。

しかしそこに弟達に見せるような、ちょっと困った色を乗せて。
まるで駄々をこねる子供を宥めようとするような色を乗せて。

 

「お前を地獄の道連れにしたら、私はきっとお前の妹に殺されるよ」と冗談を。

そしてやっと。楽しそうに笑って。

 

 



 

 

「境界線…か」

 

風間が帰ったあと、さっきまで風間がいた客用のソファを何気なく眺めながら。私は一人ごちる。

そんなもの何処かに存在するのだろうか?
それならば、私が踏み越えたのはいったい何時だろう?
それこそ、生まれ落ちた瞬間かもしれない。
この家に生まれた段階で、私は既に境界線の向こう側に存在していたのだから。

 

机の上には、昨日恭介が置いていった金平糖が転がっている。
まるであの子を結晶にしたかのような、鮮やかで美しい砂糖の塊を指で摘まんで。弟の笑顔を思い出して、笑みを零す。

 

私はあの子を境界線の向こうへやることが出来たのだろうか?
同じ日に、同じ場所に生まれ落ちた自分の片割れを。境界線の向こうへ、と。
穏やかで安全な世界へと。
命のやり取りや、国家の問題とは無関係でいられる、風間の言う『日常』へと。

 

それならば、独りで地獄に落ちる甲斐がある。

 

 

しかし。

 

 

 

『この場所でお前がどんどん遠くに行ってしまうのをただ眺めてろ、て言うのか?』か。

 

思い出して、つい笑みが零れる。

全く、何を言っているのか。

 

あの男は、灯台のようなものだというのに。

 

真っ直ぐ、指針が変わらずに。揺らがずに。その場所に。

どれだけ私が愚かな罪悪にこの身を染めたとしても。

きっとあの男は今と同じ場所で、私を見ているのだろう。

決して見捨てることなく、見限ることなく。

きっと、落ちぶれても、うらぶれても、泥を被ろうが、世界全てから見捨てられても。

きっとあの男は今と同じ場所にいる。

容赦はしない。

罪を犯したのなら、それを償う道を説くのだろう。

だが決して見捨てはしない。

見て見ぬふりもしない。

目を背けもしない。

 

それがどれだけありがたいか。

それがどれだけ安心出来るか。

あの男は理解していない。

 

あれは私のものではないから。

だから私からは切り離すことが出来ない。

私から搾取することが出来ない。

それがどれだけ心強いか。あの男はわかっていない。

 

だがそれをわざわざ説明してやる気はない。

 

「私を理解したいなら、まずそこからだな…」

 

呟きと同時に、扉をノックする音が。

時計を確認して、机の上に転がった金平糖をひとつ口に運んで。

 

 

「雹様、出発準備完了しました」

 

 

窓の外は日が沈んで、闇が世界を染め上げようとしている。

ここからは、境界線の向こうの世界だ。

 

「今行く」

 

返事を返して。

 

 

 

 

私は境界線を。

 

 

 

踏み越える。







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