6 抑圧されたそれは 果たして感情と呼べるものですか


 

さて。どうだろう。

 

感情、ではない気がする。

これは、もう私の一部だ。

感情とか、思考とか、痛みとか。どんな言葉にも当て嵌まりそうにない。

 

「お前は感情を抑え過ぎるんだ」

 

風間は何処か呆れたようにそう言った。

 

「自由奔放、というわけにはいかぬが、普通にしているつもりだが」

 

それはもう既に。我慢とか、抑圧とかではないのだろう。

あまりに空腹で、感覚が麻痺するように。

ずっとそうだと感じなくなる。

 

「しかし自由に振る舞うのも肩が凝りそうだ」

 

慣れないことをすれば余計疲れる。

それは想像するだけでげんなりするくらい予想できてしまうモノで。

私はその時、風間に「だから遠慮被るよ」と応えたのだった。

 

 

 

 

§§§§§§§§§§

 

「忌野?」

 

バイトから帰る途中。

人通りも少ない道で。街灯の明かりの下に、見慣れた、見間違えようもない人物。

俺から出向くことはあっても、忌野から出向くことは滅多にないことなので、何かあったか、と駆け寄った。

 

近づくと。

ぷん、と鼻をくすぐる。

 

強いアルコール臭。

 

 

「…酔ってるのか…?」

 

確かザルだ、と聞いていたが。

いつもの凛とした姿ではなく、何処となく足元もおぼつかないその様は明らかに酔っていた。

 

忌野は普段では絶対に見られない、恭介君ばりの笑顔を見せて。屈託なく。

 

「日本酒、焼酎ならいくらでもいけるんだけどな。呑み慣れない洋酒の所為で回ってる」

 

ははは、と。笑いながら。

確かに。俺にもそれは経験があった。

昔、何処かの組の若頭がくれたウィスキーが滅法旨かったのだが。すとん、と落ちた。

旨い分、飲み口がまろやかで。ついついカパカパと開けてしまったのだ。

 

「大丈夫か…?」

 

見たところ、気分が悪そうではないが。アルコールは急にくるから。

しかし忌野は楽しそうに「大丈夫だ」と。

そして「時間があるなら酔い覚ましの散歩に付き合え」と言って。こっちの返答を待たずに歩きだしてしまう。

 

ふらふらとしている割に、すたすたと。

俺は忌野の背中を追いかけながら、ぼんやりと頭上に浮かんだ月を見た。

 

ああ、今日は満月か。

 

残念ながら、天気は生憎曇りだったけれど。雲の隙間から、静謐な明かりが深々と降り注いでいる。

 

その明かりの中、忌野は。

その足取りもさることながら、外見、髪色も相まって。

 

…まるで御伽噺のようだな。と俺はひとりほくそ笑んだ。

 

狐にでも化かされて、ついて行ったら酷い目にあう。そんな昔話があったように思う。

 

「何を一人で笑ってるんだ?気持ちが悪い」

 

振り返った忌野は怪訝そうに。

どうした、とも言えずに俺は笑いを噛み殺した。

 

 

暫く歩くと児童公園に出る。

こんな深夜、子供は勿論いない。

街灯も、公園の真ん中にぽつんと寂しく一本あるだけなので地元のヤンキーも溜まっていない。

忌野は吸い込まれるように公園に入っていき、砂場にしゃがみ込んだ。

 

 

「忌野?」

「忘れ物だ」

 

砂場から拾い上げたそれは、昼間、子供が忘れていったらしい柔らかいゴムボール。

鮮やかな黄色のソレを手で弄びながら、忌野は何か思いついたようににっこりと笑って。

 

「キャッチボールでもするか?」と。

 

「お前とキャッチボール?」

 

思いがけない提案に、つい。

その態度が気に入らなかったのだろう。忌野の表情が険悪なものに変化する。

慌てて取り繕いながら。

 

忌野雹がキャッチボール…

 

あまりに。

「らしく」ない。

 

 

「昔、恭介としたんだ」

 

ぽつり、と落とされた言葉の音が、とても穏やかで優しかったので。

その記憶が忌野にとって、心地よいモノなのだ、と推測出来る。

こんな風に穏やかに自分の過去や、思い出を語ることなんて滅多にないことだから。俺もつられて笑ってしまう。

 

「意外か?」

「正直な」

「私にだって、幼い時はある」

「わかってるさ」

 

適当に距離を開けて。

キャッチボールなど、俺も随分と久し振りだったから。

とりあえず肩を回してストレッチをする。何もせずにすれば、変に痛めてしまいそうだ。

 

 

街灯の決して十分とはいえない明かりの中。

ボール自体が明るい色な為、追うことが出来るが。それでも。

明かりが補いきれないところに投げれば、そのボールは簡単に闇に紛れてしまいそうだったから。

俺達は、やや慎重にキャッチボールを繰り返す。

受け取っては投げ返し、それを繰り返し。

 

普段に比べて格段に饒舌な忌野は、ボールと一緒に言葉を投げてくる。

 

それは些細なことや、学校のこと、普段では口にすることのない仕事のさわり。

しかし決して、その中に愚痴は含まれない。

文句のひとつ、言いたいこともきっとあるだろうに。決して。

 

そこだけは。

いつもの忌野だ。

 

 

 

「あ」

「あ」

 

忌野の放ったボールが、闇の中に吸い込まれていった。

 

流石に、この暗さでは探すことは出来ないだろう。

 

忌野は暫く、ボールが消えた方向をじっと見ていたけれど。そのうち、諦めて。

「仕方がないな」と、明らかに声に残念そうな色を込めて呟いて。

 

「また、昼にでもやろうか」

 

俺の提案に、忌野は笑いを返す。

雲が切れて、その隙間から月光が。

その穏やかな面を、優しく照らした。

 

 

 

「そろそろ帰る」

「一人で帰れるか?タクシーでも拾った方が良くないか?」

「大丈夫。車、手配するし」

 

未だに、足元は多少ぎこちない感はあるけれど。

それでも、最初に会った時よりかは大分しっかりしているようだ。

 

 

 

ぶらぶらと。大きな道路に出るまでの道を歩きながら。

俺達は、キャッチボールの時同様に。他愛のない話をする。

 

「こんな風に酔うのは悪くないな」

「酒は楽しいのに限るぞ?」

「基本、仕事以外では呑まん」

 

それは楽しくなさそうだな。

 

「じゃあ、今度一緒に呑もう」

 

俺の提案に、忌野はこっちを振り返る。

そして。

 

 

 

表情は逆光になってしまって解らなかった。

 

 

 

忌野が車に乗り込むのを見届けて、俺は来た道を戻る。

想像するしか出来ないけれど、アイツは多くのことを耐えていて。

今回、ほんの少しだけ。緩んだのだろう。

 

弟君と同じように。あんな風に笑うことが出来るなら。

それは俺にとっても救いだ。

 

 

酔いが醒めた時。アイツが今日のことを覚えているか解らないけれど。(まぁ、多分覚えているんだろうけど)

きっと謝罪の電話なりかかってくるだろうけど。

別に迷惑でもなんでもないし、楽しかったから良いのだけれど。

それを良しと出来る男ではないから。

 

俺は確実に起こるだろう未来を予想して、ひとり、笑う。

 

その時にでも。

飲み会の提案でもしよう。

 

 

なんのしがらみもない、楽しい酒の席を。

 

 

俺の考えを応援するように。

晴れてきた空に、真ん丸な月が全貌を現していた。

 

 



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