笑いかけないで
相も変わらずヒステリックに怒鳴り散らす女を横目に、俺は今日の晩飯の献立なんかを考えながらぼんやりと歩いていた。
人通りの多い場所は嫌いだったけれど、こっちの方が近道だから、と公園を突っ切ることにする。
芝生が目に鮮やかな公園では、幼い子供を連れた母親の姿があちらこちらに。
今日はいい天気だし、格好の散歩日和なのだろう。
寝転んで昼寝でもしたら気持ちよさそうだ。
そんな穏やかさとは相反して、この女の怒りは治まりを見せない。
結局何で怒っていたんだっけ?
俺にとってはあまりにもどうでもいいことだったんで、忘れてしまった。
しかし女というものはよくもまぁこんなにも話していられるものだ。
目まぐるしく動く唇と、マシンガンのように溢れ出る言葉には感嘆すら覚える。
「少しは気が済んだか?」
言葉が途切れたのを見計らって、言葉を挟むと。
逆効果だったらしく、不機嫌だった顔が更に険悪なものに。
まぁ、半分わかってやってるのだが。
ある意味正直。ある意味とてもわかりやすい。御しやすい女でもある。
俺がどうこうしようと思わない男で良かったな。感謝して欲しいくらいだ。
完全に女の言葉を耳からシャットダウンして、俺は小春日和の暖かい空気に神経を集中させる。
その時。
ふ、と俺の耳に。
「天使ちゃん」と女の声が届いた。
瞬間、無意識に立ち止まり声の方に振り返る。
そして、俺はつい。
その場にあった情景に笑みを零した。
暖かい陽光を浴びる乳母車に、乳飲み子が。
まるでその光を掴もうとするように小さな手をうんと伸ばして。
そして、その乳母車を押す母親は本当に愛しそうに、幸せそうな顔をして我が子を眺めていた。
『天使ちゃん』と呼びかけながら。
呼びかけられた赤ん坊も、警戒心など一切ない顔で、母親をそのキラキラした瞳で見つめる。
そこにあったのは。
何処までも何処までも、幸せな情景。
「…子供、好きだったっけ?」
横から聞こえた声に、我に返って。
そっちを見れば、意外そうな顔で俺をまじまじと見ている好奇な視線。
「…別に」
「あら。照れなくてもいいんじゃない?いいと思うわよ。子供好き」
舌打ちしたい衝動をなんとか抑えて。
俺は女を無視して再び歩き出す。
別に子供が好きだから、ではない。
だが、その理由を話して聞かせてやる義理もないし、義理があったとしてもきっと話さない。
『天使ちゃん』
遠い昔、母が俺をそう呼んでいた。
今では、母の声すらちゃんと思い出すことは出来ないけれど。
それでも、その声に含まれていた愛情や、呼ばれた時に感じる暖かさを思い出すことは出来る。
それはちゃんと、俺の中に息づいている。
あの瞬間。
ふ、と。思い出してしまっただけ。
いつもは奥深くに眠らせている想い出を、ほんの少しだけ、浮上させてしまっただけ。
再び、沈ませるのはほんの少し胸に痛みを覚えるけれど。
それでも、それに縋らなければならない程、俺はもう幼くはなくて。
「あんな顔も出来るのね」
「ああ?」
いい加減にしてくれ、と相手を見れば。
まるで勝ち誇ったような顔で、にんまりと笑みを浮かべて。
「あんな風に笑うなんて、本当に意外。みんなにも教えてあげなくっちゃ」と。
ああ。
本当に。
イヤな女に見られた。
いや、誰に見られてもイヤなものだけど。それでも。
俺は抑えていた衝動を解き放って。
思い切り不機嫌に、舌打ちした。
『天使ちゃん』
微かに耳の奥で、母の声がする。
それはさっき聞いた、あの母親のものだろうか?それとも記憶の中にある俺の母のものだろうか。
どっちにしろ、そこにある暖かい愛情には違いない。
その余韻に浸りながら、隣で笑う女に毒づいて。
俺は暖かな陽気の中、ほんの少しだけ。
母を想って、笑った。
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