忘我の交錯 「この男を殺してしまえば」 霧嶋ゆりかは何度目かの答えを、とうとう声に出して呟いてみた。
ジャスティス学園地下牢。 一体何のためにこんなものを建設したのだろう? あらゆる場所に完備された、軍の施設のような防犯装置。そして厳重なセキュリティ。そんなものに統治されている、超がつくほどの進学校。 なんて矛盾。 民から税を貪って、その結果民の怒りを買って革命を起こされ、そして現在再び民の税で保護されている建物のようだ。 過去に何があったのか想像してしまう、後ろ寒くなる感覚。 しかしそれは過去ではない。 いまだに、ここの人間達にとって過去ではない。 地下室特有の湿ったひんやりとした空気。 そして最もこんな場所が似合わない、生命体。 この男を殺してしまえば。 そう、そう祈って止まない男がそこにいる。 壁に凭れかけるように、男は座っていた。 半年前。 今まで扱ってきたようなそんな仕事とはかけ離れた大仕事に、私は足が竦み、弟は狂喜乱舞した。 それがこの男、『忌野雹』を始末すること。 実際、こんなに巧くいくとは思っていなかった。 こんな簡単に忌野雹が弟に洗脳されるなんて、思っていなかった。 しかし今、弟は忌野雹に執着し過ぎている。 忌野雹という、手が届かないと思っていた存在を手に入れたことで歯止めが聞かなくなっている。 この男を殺してしまえば、全て終わるのだ。 私はとっとと仕事を終わらせてしまいたい。 この男を殺してしまえば、弟も上に報告せざるを得ない。 解放されたい。 ギギィ・・・・・・・ 牢の扉は立て付けが悪くなっているのか、酷く軋んだ音を上げる。 弟は今、他校に襲撃をかけにいっている。 弟の不在の間に、忌野雹を殺してしまえばきっとあの子は怒るだろう。私もただでは済まないだろう。 ソレほどまでに、あの子の忌野雹への執着は異常だ。 だから。 私の中で本能が急かしている。 あの男をとっとと始末してしまえ、と。 そう、この男を。 洗脳をかけられている男は、こんなに近くに他人が忍び寄ってきているというのに視線も、顔すらも上げようとしない。 ただ、だらりと四肢を弛緩させてそこにいるだけ。 そう、こんなに近距離で凶器をもった人間がいるというのに。 座り込んで、その何も写さない瞳をのぞき込んだ。 洗脳されて赤く染まった瞳は、何も写さず、何も返さず、ただただ虚空の一点を見据えているだけ。 それは何体か見てきた洗脳者と同じ、一種嫌悪感や醜悪さを覚えさせるものと同じだったのだけれど。 それでも、不思議とこの男の虚ろな表情は嫌悪感を呼び起こさなかった。 元から、何処までも作り物のような、人形のような、生気を感じさせない顔だったからだろうか? といっても、この男の顔に表情らしいものが浮かんでいる所など見たことが無かったけれど。 この男は、雲の上の人の様な存在だった。 時々、裏社会で催される大規模な集会で、遠目に、本当に認識できるか出来ないかくらいの距離を隔てて 本当に一握りの特権階級の、その中の更にひとつまみの、この国を牛耳る裏社会5家のうちの一家。 私達が必死で守り通そうとしている尊厳やプライド、命や生活、そんな諸々の、 まさか、この男を殺せと命令される日が来るとは。 「皮肉なものですわね・・・・諸行無常、ということかしら」 一人呟いて、かつては手を伸ばしても、叫んだとしても声すら届かなかっただろう男に、触れた。 確かに人間の感触がする。 柔らかく、滑らかで、弾力があり、温かい。 制服の詰め襟のすき間に指を這わせ、首筋の脈を計る。 そう、この頸動脈さえ断ち切ってしまえば仕事は終了するのだ。 この指の下にある、ドクドクと脈打つ血流を断ってしまえば。 この男は全て持っていたのに。 全て失う心配などしなくても良かったはずなのに。 「馬鹿な男・・・・」 呟いて、込み上げてきた笑いを噛み殺した。 誰もが妬んだだろう。 この男の敗因は、守られることに慣れすぎて自分がどれだけ妬まれ疎まれ、狙われているということに気が付かなかったこと。 ここまで完璧でなかったなら、こんなことにはならなかっただろう。 本当に、なんて驕り昂った馬鹿なのだろう。 そしてこんな馬鹿に、心から心酔しきっている弟も馬鹿だ。 この男を殺せば、弟は怒るだろう。悲しむだろう。取り乱すだろう。 「・・・・貴方が存在しなければ、どれだけ楽だっただろう?」 私は指先から感じる脈動に向かって、言葉を落とした。 自分と同い年で同じ社会で、どうしてこんなに違う存在がいるのだろう。初めて彼を見たとき、本気で思った。 私達は使い捨ての効く便利な駒で、一方は掛け替え無いと持て囃された御曹司様だ。 妬んだ。 恨んだ。 本気で殺意を抱いた。 どうせならもっと年が離れていればいいのに。 どうせならもっと地味な容姿だったらいいのに。 抱いた醜い感情を数え上げればキリがない。 ただ、その存在の一切を私の中で否定した。 許容できなかった。 あれは特別なのだ、とまるで種でも違う生命体を見るように、存在を否定しなければ私の精神は醜い汚物を吐き出し続けていただろう。 そう、この男は私が存在を否定した生命体。 否定された生命体の生命を奪うのは、随分と容易な話だ。 「本当に・・・・甘やかされて、守られて、他人に踏み付けられたことなんてナイでしょう? 道端の雑草に目を止めることもなく、それが当然だと生きてきて。 ・・・・けど御生憎様。 死と直面したからか、微かに洗脳された瞳が揺らいだ。 うな垂れていた顔が私を見ている。 じっと。 じっと。 その瞳に魅入られたように、暫く瞳を逸らせなかった。 ゆらゆらと、まるで蝋燭の炎のように揺らめいている朱い瞳から。 動けずに、目も逸らせずに、指先に力すら込めることが出来ずに、ただ魅入る。 そんな私の指に触れる感触があった。 チャリン、とナイフが床に落ちる音。 耳はその音を拾っているけれど、まるで耳に圧力がかかっているように遠くで聞こえる。 瞳から目を逸らすことの出来ない私は、落ちたナイフを視覚では認識できない。 私の視覚が捉えているのは、ただこの男の瞳だけ。 そして私の視覚を占領していた瞳が更に大きく揺らいだ。 口角が微かに上がり、笑みを造形する。 その瞬間、私は確実な死を予感した。 意識を失って倒れ伏す女を見下しながら、忌野雹は一つ息を吐いた。 洗脳されているフリをするのも楽ではない。 しかし。
女の言葉を思い出し、苦笑する。 端から見ると、そんな風に見えるのか。 まぁそんなことを悟られるような態度は取っていないけれど。 それでも、これは笑い話だ。 優れているからといって、全てを持っているわけではない。 微苦笑し、自分の手をじっと見つめてから、忌野雹は座敷牢の上に取り付けられた明かり取りの小さな窓を見上げた。 そう、ほんの微かに・・・・・ §§§§§§§§§§§§ 意識を取り戻すと、見覚えのある部屋だった。 ジャスティス学園生徒会室。 私は何をしていたのだろう? 頭の奥がずんと重い気がする。 時計を見ると、そろそろ18時になろうとしている。 私はいったい何をしようとしていたのだろう? 疲れているのかもしれない。 そうだ。早くこの仕事を終わりにしなければ。 早く、あの男を殺さなければ・・・・・・・・ あの男を・・・・ |
背景素材提供 妙の宴 様