耳心地の良い煩さ



麗らかな日差し。

日陰に居れば涼しいが、直接日差しに当たれば汗ばむような陽気。
しかし、爽やかな風が吹くので不快はなく、一年で一番、過ごしやすい時候。

 

昼日中。日中で一番暑い時間帯とはいえ、人のいないガランとした板張りの道場ではその暑さからは完全に切り離されている。
周りを樹木に囲まれた離れの道場は、普段門下生の指導をしている主道場と違って、今や完全に彼、アンディ個人の修行場となっていた。

もとは彼の師であり、妻となった舞の祖父でもある不知火半蔵が個人的に使っていた場所でもある。
壁や、貼られた板間に染み付く染みや傷。

そんな一つ一つが、まるで今は亡き師匠の教えのようで、そこに師匠がいるかのような錯覚を覚える。

そして、その教えを出来る限り吸収しようと、日々精進を重ねる。

彼にとっては、それこそが恩返しであったし、またそれこそが生きる意味だった。

 

 

最近の習慣となっている、坐禅を組んでいると。
遠慮のない気配がひとつ。

目を開けて確認する必要もない。

 

その気配はどんどん近付いてきて、ぎゅっ、と後ろから抱きついてきた。

 

確かな体温。

そして確かな重さ。

女性特有の柔らかさ。

 

「アーンーディー」

 

舞だ。

だが、常人では簡単に篭絡されるであろう彼女の魅力も。
アンディの精神を乱すことは出来なかった。

というよりも、すっかり慣れ親しんでしまっているスキンシップなのだ。

それはもう、幼年期(と表記すれば語弊はあるが)随分と昔から彼女はずっとこうなのだから。

 

坐禅はいかなる煩悩にも煩わされることなく、己と向き合う修行。

アンディは躊躇なく、修行の続行を選んだ。

 

彼女の声を意識から追い出して、ただ精神を己の内部へと集中する。

聞こえていた声は、徐々に遠くなって

そのうち、自分の息遣い、鼓動、血液の流れる音などが静まっていき

辺りに溢れる新緑の、若葉を互いに風でそよがす音や鳥の羽音

そんな数多の生命の営みが発する音が集約されていき

溶け合って、まるで一個の生命体のようになる。

 

個は個ではなく、己は己でなく、世界は世界でなく、何処までも広がり、そして集約されていく。

 

 

 

濃厚な時間。

重厚な時間と言っても差し支えがない時間。

それを破ったのは無粋にも聞こえる電子音。

 

集中すれば時間間隔がなくなってしまうことを自覚している自分がかけたアラーム。

まるで潜水していた水中から、ゆっくりと浮上するように。
アンディは静かに瞳を開いた。

 

 

自分の横に置いておいたはずの腕時計は、不自然な程遠くにあった。

まるで誰かが放り投げたか、蹴っ飛ばしたかのように。

 

まぁ、その誰か、は考えなくとも解っているのだけど。

 

 

現実の世界に帰ってきて。

早速だけれど溜息をひとつ。

 

立ち上がり、道場の半ばまで腕時計を拾いに歩き、電子音を止める。

時計は壊れてはいなかったけれど、傷がしっかり、ついていた。

 

 

§§§§§§§§§§§§§§

 

 

シャワーを浴びて汗を流して、台所の暖簾をくぐれば鼻孔をくすぐる良い匂いが。

調理場に立ち、忙しそうに動く舞の背中からは無言の『怒』のオーラが『これでもか!!』と言わんばかりに溢れ出ている。

 

…これは随分と怒ってるな…

 

無視されたことが余程腹に据え兼ねたらしい。

だが、それも日常茶飯事である。

となれば、あの時話そうとしていた内容が舞にとって大事な話だったのだろう。

 

「舞、話はなんだったの?」

 

聞くと。

返事は無機質で硬質的な拒絶を伴う『がちゃん!』という金属音で。
乱暴に鍋の蓋を閉じたらしい。

 

…あーあ。

 

聞こえないように溜息を零して。

 

自分の席には、いつものように新聞が畳んでおいてある。
このどうしようもない空気を改善する方法を思い付かないので、とりあえず、それに目を通す。

 

「明日は暑いみたいだよ」

 

…………………

 

「こないだの事件、犯人捕まったんだって」

 

…………………

 

「あ、今あそこのお寺で50年に一度の御開帳してるんだってさ」

 

…………………

 

「…庭の花…多分明日には咲くんじゃないかな?」

 

…………………

 

「あのさ……」

 

言いかけた言葉は、やや乱暴に目の前に置かれた夕飯によって遮られる。

どれだけ怒っていたとしても、食事に細工したりするような舞ではない。

そこに並べられる料理はどれも、いつも通り美味しそうだ。

 

「…いただきます」

 

 

完全に。

無視である。

 

 

弱ったな…

 

 

 

瞬間、謝罪の言葉と。

どれだけ怒っていようともたちどころに機嫌の治る『魔法の言葉』が頭に浮かぶが。

それを伝えるのは、正直避けたかった。

 

男がそんな簡単に伝えるのはどうしても、憚られる。

 

親友のムエタイチャンプや、兄はきっと呆れるだろうし

友人であるブルジョアのイタリア人は信じられないという顔をするだろう。

同じく夫婦共に友人であるフランス人のバーテンダーには説教されかねない。

大会で顔を合わせる金髪の日本人シューターは、やれやれと言葉を濁すだろう。

 

だがそれでも。

 

そこは断固として曲げる訳に行かないポイントだ。
男がそんな簡単に、そんな言葉を口にするもんじゃない。

 

下手をすれば墓場まで持っていっても良いくらいの言葉だ。

(いや、これは大袈裟だけれども。)

それでも、容易に口にするのは憚られる。

 

 

黙々と。

ただ、料理を口に運ぶだけの味気ない食事。
(勿論、味はいつも通り、とても美味しいけれど)

 

 

何時も、五月蠅いくらいに騒がしい彼女が静かだと此処まで味気なくなるモノか、と。半ば呆れながら。

 

 

 

何時もより、数倍飲み込みにくく感じる食事を終えた。

 

 

§§§§§§§§§§§§§§

 

 

翌日。快晴。

この時期は本当に気持ちの良い天気が続く。
これを越えると、梅雨に入り、本格的な夏が来る。

都会に比べれば、山中は涼しいけれど。それでも日本の夏は堪える。

これは、人生の半分以上を日本で過ごすこの身体でも決して慣れるものじゃない。

 

同じく、人生の半分くらいをタイで過ごそうとしている親友にとっては、日本の夏なんか涼しいくらい、だそうだけど。

絶対に夏のタイになんか、行かない。

 

 

朝の修行を終えて。
母屋に戻れば、いつもは騒がしい彼女が静かで。

 

まだまだ機嫌が治まってないことを証明。

眠る前は、朝起きれば治ってるだろう、と思っていたのだけど。楽天的に過ぎたようだ。

 

 

こうして口を閉じて黙々と家事に従事している彼女は、その無駄のない動きも相まって。
おしとやかで、嫋で。まさに大和撫子と呼ばれるに相応しいように見える。

 

暫く、滅多に見られない彼女の様子を眺めながら。
そのうちに。

 

やはりどうしても、いつもの感じと違う違和感に。

どうにも落ち着かない気分になって。

 

 

「舞、昨日はごめん」と。

滅多にこっちから謝るようなことはないのに。

折れた。

 

これは自分とって一年に数回あるかないかのことだったのだけど。

 

「……………………」

 

返ってきたのは、まごうことのない沈黙。

 

彼女は一度だけ、こっちを見て。

次の瞬間、まるで子供のように、ぷいっとそっぽを向いた。

 

 

確かに。話を聞かなかったのは悪いかもしれないけれど。
それでも修行中だったのだ。

彼女もいい加減、修行中に邪魔をしても相手にされないということを学ぶべきだ。

自分からすれば、修行の邪魔をされて、相手にしなかったからといって一方的に臍を曲げられている状態なわけで。

それでも、譲歩して彼女に『謝罪』したというのに。

 

この態度はいかがなものだろう?

 

 

正直。ちょっとムッとした。

 

 

そして、この瞬間から、お互いに意地になってしまったのだ。

 

 

§§§§§§§§§§§§§§

 

 

朝、修行をして、その後門下生に修行をつけて、午後から自分の修行をして。

いつもの日常。

なんら変わらない何時もの日常。

 

ただ、そこから会話だけが切り離されている。

 

彼女が喋らない。

そして彼女が近寄らない。

 

それだけで、随分と門下生に騒がれた。

 

最初は『喧嘩ですか?』とからかい半分だった門下生も、それが三日、四日と続くうちに『謝った方がいいですよ』とか『男が折れないと』とか言うアドバイスに変わった。

 

同じく、何処から聞きつけたのか解らないけれど(多分、仲の良い門下生の誰かが知らせたんだと思うけど)ジョーからも電話がかかってきて『舞ちゃんと喧嘩してんだって?珍しいな!とっとと謝って仲直りしちまえよ!』と有難いアドバイスをいただいた。

 

こっちは謝ったのだ。

それを彼女が受け取らなかっただけで。

 

そう言ったら『誠意が足りねぇんだよ』と言われて。

それじゃあ、あの場で土下座でもするべきだったのだろうか?

 

そんなの死んでも御免被る!!

 

自分としては一回、ちゃんと謝っているのだ。

次は彼女の方が謝る番だろう。

 

誰に会っても、『お前が謝れ』と言われて。
ソレに対しても釈然としないし、納得も出来ずに。

 

 

そのまま、意地を張り合った冷戦は一週間目に突入した。

 

 

§§§§§§§§§§§§§§

 

 

彼女が邪魔をしなければどれだけ捗るだろう、と思っていた修行。

彼女がちょっかいをかけて来なかったら、どれだけ捗るだろうと思っていた読書。

彼女が話しかけて来なければどれだけ捗るだろう、と思っていた瞑想。

 

 

しかし、結局のところ。
悔しいことに。

ドレもコレも、全然捗らなかった。

 

 

彼女の存在はすっかり馴染んでしまっていて、それがないと逆に落ち着かなくなってしまっているようだ。

 

この沈黙の冷戦は正直。

 

 

 

結構、辛い。

 

 

 

どんな些細なこともお互い、話してきた。

それこそ、庭の花の話とか、天気の話とか。

ずっと一緒にいたのだ。

ずっと一緒に育ってきたのだ。

目新しい話題なんて、お互いの間には存在しない。

 

ふ、と目に入った雲の形が面白い。
新緑芽吹いた葉に太陽が当たって、葉脈が透けて見える。

そんな、どうでもいいような日常の感想を。
横にいる彼女に話す。

そして彼女もまた、同じようにそんな他愛のないことを聞かせる。

 

その時間がぽっかりと失われてしまっている状態は。
思った以上に堪えた。

自分が思っている以上に、その時間は自分にとって大事な時間だったらしい。

 

きっと彼女にそれを告げると、嬉しそうに笑うのだろう。

その笑顔を想像して、ちょっと負けたみたいで悔しくなる。

 

こんな時、格闘家なんてやってることが煩わしくなる。

格闘家なんてモノは、この世で一番の負けず嫌い集団だからだ。

自分も彼女もその点でいえば、その一員で。
そこはどうしようもない。

 

 

後、どれだけこの冷戦は続くんだろう?

 

終わらせようと思えば、今すぐにでも終わらせることが出来るはずなのに。
何処までも素直になれない。

意地の張り合いがお互いを邪魔してる。

 

ここ数日、やたらと舞と目が合うようになってきてる。

彼女もこっちを伺っているのだろう。

 

目が合うということは、こっちも彼女を見ているということ。

 

解ってる。

解ってるんだけど。

 

 

 

修行なんかとは全く違う疲労感が圧し掛かってくる。

空の快晴っぷりがだんだん腹ただしくなってきた。

 

 

§§§§§§§§§§§§§§

 

 

とうとう冷戦は十日目を迎えた。

彼女が側にいるのにこんなに長い間会話をしないのは、初めてだった。

喧嘩をするのはしょっちゅうだけど、何時もこんな長引くことはない。

長引いたとしても、それは大体こっちが勝手にKOFに参戦したりで日本を出て行ってるから、彼女が怒ってる間、側にいないし。

大会が終わって帰る頃にはいつも通りになってる。

 

 

しかし今現在。

お互い一言も喋らない。それこそ朝の挨拶もしない。

食べる時に習慣として「いただきます」と「御馳走様」は言うけれど、これは相手にではなくどちらかというと食材に対して言っているような感覚だ。
勿論、「おやすみ」もなければ「ただいま」「おかえりなさい」もない。

 

挨拶がないだけで、日常はとても寒々しいものになるのを知った。

 

 

変わらない朝食。

会話のない朝食。

ただ、栄養を摂取するだけの朝食。

 

美味しいハズの料理の味が、解らなくなる。

 

自然、溜息が落ちた。

そして、その瞬間、同じように彼女も溜息をついた。

 

重なる音に。
お互い顔を上げて。

 

 

 

ほんの少しだけ。

見つめあった。

 

 

 

短い沈黙。

 

お互い黙ったまま、探り合ってる。

 

 

そのうちなんとなく、可笑しくなって。

つい、笑ってしまった。

 

けど、暫く必要以上に固い表情をしていた為か表情は固まってしまっていて。
浮かべた笑顔は、酷くぎこちないものに。

 

それは彼女も一緒だったようで。
いつもの笑顔に比べれば、格段に固い表情で。

それでも、やっと。

笑った。

 

 

「舞が喋ってくれないと…なんでだか、味気ないよ…」

 

正直に告白すれば。
彼女は、更に笑顔を鮮やかなものに変化させて。

 

十日ぶりに見た彼女の笑顔は。

正直、見惚れるに十分な威力を持っていた。

 

 

どれだけ負けず嫌いだろうとも。

どれだけ意地を張ろうとも。

結局、男というものは女性には勝てないように出来ているのかもしれない。

 

それを認めてしまうのは癪だけど。

彼女の笑顔には、それだけの力があった。

 

全く。

 

 

完敗だ。

 

 

 

食後。

縁側でお茶をいただきながら、門下生たちがやってくるまでの時間。
新緑溢れる庭を眺めていた。

 

背後から、彼女の気配。

 

そして、最初の日のように。後ろから抱きつく。

 

「舞。零れるよ」

 

勿論、気配を読んでいたので零れるような位置にお茶は置いてないのだけど。
彼女の笑い声が耳元に優しい。

 

「私が喋らなかったら寂しい?」

「…寂しいわけじゃないよ。何時も騒がしい舞が静かだと調子狂うだけで」

「何ソレ?もっと気の効いた言い方、出来ないの?」

 

後ろから羽交い絞めにしている彼女の腕に力が籠って圧迫される。

 

「寂しいって言いなさいよ!」

「ハイハイ、寂しい、寂しい」

 

望み通りに言ったのだけど、彼女の気には召さなかったようで。
腕の力は緩まない。

 

そしてそのまま。

後ろに引っ張られた。

 

 

丁度彼女の上に倒れ込むような形になる。

彼女が身体をずらして上体を持ち上げれば、その姿勢は膝枕されてるような状態になって。

 

「……こら」

 

上から覗きこんでくる彼女。

彼女を見上げる自分。

 

「寂しかったんでしょ?」

 

まるで、悪戯を思い付いた子猫のように。

くるくる変わる表情で、彼女は問いかける。

 

答えを知っている癖に。

 

 

どれだけ強がったところで、この態勢で瞳の奥まで覗きこまれれば。

嘘は吐けない。

隠し事は出来ない。

 

 

だから、もう諦めて。

不承不承に仕方なく。

 

 

「…まぁね」と。

敗北宣言。

 

 

見上げる彼女の顔が本当に嬉しそうで。

悔しいながらも、久々に見た彼女の笑顔に満たされてる自分がいるのも本当で。

 

そしてもう。

ここまで負けを認めてしまってるんだから、言ってもいいか、と思った。

 

彼女の機嫌を、どれだけ怒っていようとも治せる、あの『魔法の言葉』を。

 

このタイミングを逃せば。
下手をすれば、本当に墓まで持って行きかねない。

 

だから。

 

彼女の笑顔を見上げながら。

手を伸ばして、その頬に触れて。

 

 

「舞のことが好きだよ」と。

 

言わないと決めていたのを破って告げた。

 

 

 

 

彼女からの返答は。

少々の沈黙の後。

ロマンスや、ムードなんて全て吹っ飛ぶ程の奇声で。

 

それこそ、誰でも解るくらいに天パって。

その後、言葉が告げないのか、それとも呑み込もうとしているのか、パクパクと口を動かして。

 

コレ以上ないくらい真っ赤になって。

 

 

 

 

うん。形勢逆転だ。

 

 

パニックに陥ってる彼女を満足げに見上げて。

彼女が我に返る前に起き上がって、そろそろ集まってくるだろう門下生を迎える為に道場に向かうことにする。

 

 

背後から彼女の声がするけれど。

 

 

本当に騒がしい。

騒がしい。

 

本当に。

 

 

けど、これぐらい騒がしくないと落ち着かない。

全く以て。
厄介な状況に馴染んでしまったものだ。

 

 

 

 

今日も快晴。

その澄み切った空を見上げて、知らず零れる笑みひとつ。

 

 

形勢は逆転しても。
実際のところ、きっと自分は彼女には勝てないのだろう。

 

いつか彼女もソレに気付くだろうか?
それとも、もう実は気付いているのだろうか?

 

それはそれで面白くないけれど。

 

 

この耳心地の良い煩さがないと毎日が味気ないのは事実だから。

 

 

 

「難儀だね…」

 

自然に零れ落ちた独り言は、何処か可笑しそうな色に染まって、『難儀』という割に楽しそうな声だった。

 





NO.2000hit! thank's
天雁花ちゃん、リクエストありがとうございました★
アンディ氏を久々に書けてかなり楽しかった(笑)



背景素材提供 空に咲く花