世界の終りの足音

 

(一)

 

  足音が聞こえる。

 階段を一歩一歩降りてくる、音。
 降りきった所で、一際大きく音が響くのも何時もと同じ。

 ぼんやりと何かを考えるのさえ億劫な思考回路を総動員して、それだけ認識すると私は上体を起こす。


 ああ、また私は罪を重ねる。

 

 「ゆりか、食事だ」


 無慈悲な弟の、声。

 右手に蝋燭のともる銀の燭台、左手に銀の盆。そして盆の上に何時もと同じ黒い、瓶。


 「今日の体調は?」

 「何時も通りよ、九郎」


 無理にでも笑顔を作って、盆の上の黒い瓶を受け取る。中身は外からでは黒い硝子に遮られて分からない。

 けれど私達は其れが何か痛いほど分かっている。

 蓋を取ると空気に漂う独特の臭気。

 眩暈と同時に押し寄せる、強烈なまでの渇望。

 私は呷るようにして瓶の中身を喉に流し込む。その様子を満足そうに見ている弟の狂った笑顔を視界の端に納めながら、気が遠くなる。

 けれど瓶の中身が与えてくれる快楽が思考を全て塗りつぶして、私をただの人形へと変えてしまう。


 この呪縛からは逃れることは出来ない。

 

(二) 

  

  私は吸血鬼。

 幼い頃から地下室に押し込められ、一族間でも私の存在を知っているものは家族だけ。

 毎日、弟が決まった時間になると何処からか調達してきた血液を私に与える。そうやってずっと、私は生きながらえてきた。

 違う食事が出来ないわけではない。

 調達できる血液が少量のため、普通の人間の食事も同じように与えられはする。けれどそれだけでは生活できない。あれを摂取しなければ、恐ろしいほどの飢えに襲われる。


 窓の無い暗い地下室で、私は外の世界のことを考える。

 空の色が青いのだと、九郎が教えてくれた。時折造花だが花も持ってきてくれた。生花は私が触れれば枯れしまうのだ。

 九郎が語ってくれる世界が、私の世界の全てだ。


 そう、私の世界の全て。


 食事を運んでくるとき以外は、しっかりと施錠してある固い鉄の扉が私と世界を隔てている。

 私は、此処から出ていくことが出来ない。

 死を望んでも、不死身の肉体は其れを可能とはしてくれない。

 だから私は自分に残された狂うような長い時間を、只生きながらえなければならない。

 いっそ狂ってしまえればいいのに。

 願いはするけれど、その願いを何処に届けていいのか分からない。

 私は神に呪われた存在。

 私の祈りなど、神は聴き届けては下さらない。

 無慈悲な指先が、いつか私を滅ぼしてくれる人間を差し向ける日が来るまで、私は救われることがない。

 この身が滅びるときこそ、私が救われる時だ。

  

  弟は今日も私のために罪を犯しているのだろうか?

 私に与える血液を収集するために、誰かを傷つけているのだろうか?

 私はそうまでして生きている必要があるのだろうか?

 私は・・・・

 

 けれどそんな私の心情を嘲笑うかのように襲ってくる、飢え。

 そして今日も与えられる、赤い赤い、罪。

 

(三)

 

  弟が来なくなった。

 何時まで経っても聞こえてこない足音に、次第に不安に駆られ始める。

 耳を澄ましても、何も聞こえない。

 動くことを拒否する身体に鞭打って、鉄の扉の前に座り込む。凭れかかるには固すぎて、私を拒絶しているかのような冷たい感触が今では私を現実に繋ぎ止める唯一の楔のように思えた。

 かりり、と扉をひっかく。

 鉄の扉には何一つひっかかることがなく、指先はそのまま扉の上を滑っていく。其れがまるで自分の存在のようで、何度もひっかいては滑る様子を、泣きたいような気持ちで眺めた。


 

  ------------------ドクンッ                                                                 


 

  急激に襲ってくる、飢え。

 喉が焼けるように熱くなっていく。

 かりり、と扉に再度爪を立てるけれど、同じように滑るだけ。


 もしこのまま九郎が現れなければ・・・・

 其れは何時も感じていた不安だった。

 私はどう考えても、一族の荷物に過ぎない。何時見捨てられても可笑しくはない。そもそも今まで養って貰っていること自体が、おかしいのだ。

 九郎に罪を犯させ続けることに罪悪感を感じながらも、其れ以上に何時捨てられてしまうかという不安をずっと胸に抱いていた。

 私にとって、世界とは九郎が全てなのだから。

 動悸が激しくなっていく。

 只飢えると言う本能が、浅ましいまでに私の神経を食い破ろうとする。


 「--------------ああっ!」                                                                 


 掻き毟りたいような衝動を感じて、喉元に爪を立てる。

 ひっかく爪は鉄の扉と違って、肉に食い込み鋭い痛みを以て私を戒めた。

  

  はぁはぁはぁはぁはぁ・・・・・

 

自分の息遣いがやけに大きく聞こえる。


 ドクンドクンドクンドクン・・・・・・・


 自分が生きているという音が、まるで世界中に誇示しようかとでもいうように響き渡る。

 視界はぼんやりとしていて、いっこうに定まらない。


 飢えている。


 世界を隔てている鉄の扉は強固にそびえ立っている。

 私はそれに手を伸ばしながら、意識を失った。

 このまま死んでしまうのかもしれない。

 意識を失う直前に考えた甘美なまでの誘惑。

 このまま血を与えられないのなら、飢えて死ぬのかもしれない。

 それが神が私に与えた、救いなのかもしれない。

 其れならば、この飢えの苦しみでさえ至福なものに感じる。

 けれど、飢えでさえ私を殺せないのだとしたら・・・・

 この飢えが永劫に続くのだとしたら・・・・

 吸血鬼は眠りに付くことで、何年も食事を摂取しないことがある。

 もしこのまま意識を失って、眠りについてしまったら。

 この飢えを抱えたまま、ひたすら生きていかなければならないのだとしたら。

 

 ----------------ああ、神様お願いです。                                                     

     私を狂わせてください・・・・・・・

 

 弟の無慈悲なまでに愛情深い指を思い出しながら、私は最後の意識を手放した。

  

(四)

 

  あれからどれだけ経っただろう。

 意識を手放しては目覚め、飢えに苦しみ、また意識を失う。

 そんなことを繰り返している。

 床を走る鼠を捕まえて食んでみたりもした。

 鼠の身体を流れる赤い水を喉に流し込み、噎せ返る。

 やはり人のものでなければ、飢えは満たされない。

 その事実に愕然とし、自分が奪ってしまった命に涙する。

 手の中に収まるほどの小さな身体の鼠は、時間が経つにつれてどんどん固くなり、生き物であったことなど無かったかのように、まるで剥製のようになってしまった。


 ・・・・・・私は罪を犯し続ける。


 邪悪なまでに汚れきった己の魂は、空気をも侵食するかのように臭気を振り撤いている気がする。肺に取り込む空気が、自分によって汚されているような気がして吐き気を催した。

 瞳を閉じれば、弟の狂気の笑みが浮かぶ。

 私は捨てられたのだ。

 そうでなければ、弟の身に何かあったのだ。

 飢えで朦朧となる頭でそう考えて、零れ落ちる涙を拭う体力もなくそのままに、私は崩れ落ちた。

 手の中の鼠が、何も写さない瞳でじっと私を見ていた。

 

 

 かつんかつんかつん、かつん・・・・・

 足音に意識を取り戻したのは、奇跡に近かった。

 もう体力など残っていない。泣くことすら出来ない。出来ることは、飢えを耐えることだけ。耐えるといっても、意識を失いそうになればそれに従順に従うのだから、言うなれば耐えてなどいないのかもしれない。

 けれど生きてはいた。

 それだけは空白に染まりそうな脳でも、認識できた。

 

 カチャン、カチャ


 確かに鍵を開ける音。

 九郎が帰ってきた・・・・・・?

 急に目の前に出された希望に、神経が音を立てて焼き切れそうになる。


 ギギィ・・・・・


 差し込む蝋燭の揺れる光。

 そこに立っていたのは、狂気の笑みを讃えた弟の姿ではなかった。


 死神・・・・?


 死神とは告知天使とも呼ばれる。

 そして現れた男は、まさにそのように見えた。

 白に近い見事なまでの白金髪を結い上げ、蝋燭の灯りを反射し金色に見える瞳を持った、怖いくらいに美しい男。

 彼は床にだらしなく倒れている私の側に蹲み込んで、上体を抱え上げた。


 「貴女が吸血鬼の姫ですね?」


 死神にしては随分と優しく笑うものだ、と意識の片隅で思いながらも、その笑みに酔ってしまったかのように私は恍惚と頷いた。


 「では、私と行きましょう」


 彼は私をまるで羽根でも生えているかのように軽々と腕に抱え上げると、私と世界を隔てていた鉄の扉を後にした。鉛のように重かったはずの私の身体が、彼の腕の中では羽の様に軽いものに思えて、不思議だった。

 もしかすると私は死んだのかもしれない。 

 彼は死神で、腕に抱かれている私は魂だけの存在なのかも。

 其れならばこんなも軽そうでも、納得できる。


 「私を天国へと連れていくのですか?」

 私の質問に先程よりも柔らかい笑みを返して、彼は首を振った。

 「私が連れていくのは、もっと良い所ですよ」

 

(五)

   

  病院のベッドの上で私は大きく取られた窓から外を眺める。

 九郎が言った通りの青い空と、目に痛いほどに眩しい太陽が世界を支配している。

 枕元には今まで触れたこともなかった生花が、鮮やかな色彩で目を楽しませてくれる。

 「体調はどうですか?」

 「お陰さまで・・・・」

 私が死神だと思った、この病院の医師は一日に一回はこうして私を訪ねてきてくれる。弟が訪ねてくるときに浮かべていた狂気の笑みとは違う、多少神経質そうな印象を受けるけれど、それでも気の落ち着くような笑みを浮かべて私を労ってくれる。

 全ての悪夢は終わったのだ。


  

  『ゆりかさん、貴女は吸血鬼などではないのですよ。全ては弟君が抱いた妄想であり、空想、そして貴女はその被害者だ』


 点滴を受ける痛ましいまでの私の腕に、そっと触れて彼は真実を教えてくれた。


 『貴女が毎日摂取させられていたのはビンロウ子という麻薬です。

 ビンロウ子は数種類のアルカノイドを持つビンロウ樹の果実で主に東南アジアで栽培されている公認の覚醒剤です。
 
 その汁は口中で反応して、まるで血のように赤くなる。

 貴女はそれをずっと血液だと思い込んでいたのです。いや、思いこまされていたのです。

 貴女が飢えだと思っていた症状は、麻薬の禁断症状。

 弟君は貴女を吸血鬼だと思い込ませ幽閉監禁することによって、自分の妄想を満たしていたのです』


 九郎が狂っていたことは、ずっと昔から知っていた。

 だからそのことに対しては、不思議と少しも驚かなかった。けれど自分が吸血鬼ではないと言う事実は、少なからずとも私を動揺させた。


 私は吸血鬼ではない。

 私は呪われた存在ではない。

 神から見放された子供ではない。


 そのことがなんだか遠い現実のように、自分にのしかかってくる。

 まるで真綿でじわじわと首を締められるような、夢の中にいるようなそんな気さえしてくる。


 『すぐには受け入れられないかもしれない。

あのまま閉じ込められていた方がましだったと思うこともあるかもしれない。

現実とは甘く優しいことだけではない。

 けれど外に出て良かったと思うこともきっとあるはずだ。

 だから貴女は生きなければならない。

 天国などと言う空想の逃げ場所は、決して貴女のためにはならない』


 彼が私の瞳を覗き込む。

 何も写さない鼠や、狂気の火が宿る弟のものとは違って、その瞳は私の姿を写し、返してくれた。


 「九郎は・・・・?」

 私の質問に、彼は眉根を寄せて一言だけ『死んだ』と告げた。

 どのように、とは聞ける雰囲気ではなく、私は納得するしかなかったが敢て深く聞こうという意識は薄いものだった。それだけの気力も沸いてこなかった。

 世界の中心に君臨し、愛していた弟だったというのに残酷なまでに私の意識は動かなかった。それは弟が、世界の中心であって、それでいてあの鉄の扉のように世界を隔てていた存在だったからかもしれない。



 そっと私の顔に触れる指に、私は意識を這わせた。

 彼は気難しく眉根を寄せたまま、私の目尻に指を添わせていた。


 『泣くのは体力が戻ってからになさい。幾ら悲しくとも、今は衰弱しきっているのだから』


 言われて初めて、私は泣いていることに気がついた。

 そして、やはりぽっかりと空いてしまった弟の存在を埋めるかのように押し寄せる感情に飲み込まれるのだった。

 それは急激に押し寄せる、禁断症状(飢え)と同じように私を責めた。動かないと思っていた感情は、自分を守る防衛本能だったと気がついた。

 静かに頭を撫でてくれる彼の掌の温もりが、私の精神を狂気の縁から正常な世界へと誘ってくれる唯一のもののようで、私は唯それだけに意識を集中し続けていた。

 そうでもないと、狂ってしまう。

 

 ------------悪夢は醒めた・・・・・                    

  



 「雹さん、私貴方を死神だと思ったんです」

 「おや。もし私が死神だったとしたら、あんなに簡単に付いていってはいけませんよ」                                                        

 私のカルテに目を通しながら、少し可笑しそうに告げる。                     


 「断れるような連れ出し方じゃなかったじゃないですか」                     

 「意志を確認出来るような状態じゃなかったでしょう?」

 カルテから目を私の方に動かして、今度こそ笑みを顔に浮かべる。


 私にとっては、彼は本当に告知天使だ。

 真実を告げにやって来てくれた、神の御使い。

 私を悪夢から覚ましてくれた人。

 



 私は新たな呪いをかけられてしまった。

 是れは昔のものとは比べ様もならないほど甘美で優しく、それでいて苦しい呪い。


 「雹さん、私 人に恋をしてみようと思います」

 「それも体力がいりますから、治ってからになさい」


 白い髪が、窓から差し込む日差しを反射して眩しいまでに視界を支配する。私はそれを陶酔するように眺めながら、無理をして作るのではない笑顔を浮かべて見せる。


 「治るまで、ずっと雹さんが私を診て下さるんですか?」

 私の言葉に可笑しそうに彼は言う。

 「担当医ですから」

 


 そう、此処は悪夢の果て。

 扉の向こう。

 狂気の終着点。

 そして夜の終わり。

 

 日が昇り。

 新しい夢が始まり。

 私は自分の目で世界を眺める。

  

  世界を眺める。

 

 

 


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