燃えろジャスティス学園レポ
(この文章は、燃ジャ発売直後に発行した『不死身の花』より転載。加筆修正)



まず、これらは私の一方的な見解なので反感等あるとは思いますが、その場合は『こうゆう考えの奴もいるんだ』くらいの気持ちで見てやってください。



まず、全てのエンディングについて。

とりあえず、一番言いたいことは『雹の死』についてです。今回、彼を殺すことにいったい何の意味があったのでしょう?あそこで彼を殺す理由は全くなかったと思うのですが。
分岐点のひとつである『伐失踪編』で恭介が言っている通り、『万が一の可能性であっても』と言う言葉が痛々しくて堪りません。

前作で、恭介が兄を父親の洗脳から解き放ち、やり直そうといったのは何だったのですか?あれからたった一年しか経っていません。恭介があまりにもあまり、無念すぎると思うのです。
あれでは彼が何のために戦い、何のために兄と和解したのか解りません。

刀にとり慿いていた父親の怨念が雹の身体を乗っ取って…というストーリーな訳ですけども、これ自体恭介の言う『万が一の可能性』で助かっても良かったんじゃないでしょうか?
今回の終わり方を見た後では、どのキャラのEDを見ても不快感しか残りません。

人が一人、死んでいるんですよ?自分が殺したことになるわけでしょ?いくら相手が乗り移られていたとしても、殴って、炎の中、崩れ落ちる校舎に置き去りにしたわけですから。
なのに、どのキャラもそんなことこれっぽっちも気にかけないED。
二週間経てば、みんな忘れられるんですか?自分が、過失であったとしても、事故であったとしても、こうも簡単に扱ってしまっていいんでしょうか?

伐も『恭介が戻ってくるのを待つ』とか言ってますが、これで恭介が自殺でもしてしまったらどうするのでしょう?
恭介はそんな弱い人間じゃない、という意見もあるとは思いますが、私としては自分の手で兄弟を殺しておいて平然と出来る人間なんて人間じゃないと思います。
人間いくら強いと言ったって、生死が関わると豹変しますから。
そこらへんも全て含めた上での『戻ってくるのを待つ』なのでしょうか?

ひなたも恭介のことばかり気にしていますが(いや、これはこれで良いことなんですけど)自分達が殺人に加担したことに関しては一切無視ですか?伐だって、血が繋がってないとはいえ(いえ、従兄弟としての血縁はありますが)死んだのは自分の兄ですよ?もう少し、何かを感じてもいいんじゃないでしょうか?

醍醐も今回のことを不覚に感じて、また旅に出る、とか言ってますけど。その前に出頭してください。自分を見直す前に、人を殺した重みを背負って下さい。
『アイツとは決着をつけねばならない』とか言ってる男の行動が、炎の中に置き去り。
私の中で、どうしても醍醐のイメージと行動が一致しないのです。


あきら達も学校でゆりかを待つ、てEDですが 「帰ってくるかなぁ?」 じゃないでしょう?
前回、自分の兄が誰かに殺されたと思って 「仇!!」 「覚悟!!」 とあんなにが鳴りたてていたのに、他人のことだとこんなもんですか?
自分の兄は死んでいなかったけれど、恭介の兄は今回、死んだんです。
その事実を誰ひとり、受け止めなさすぎです。
今度は自分が恭介に 「兄の仇!」 と狙われる立場に立っているのです。前作のあきらのイメージでは、そんなことになったら自ら腹でも切りそうだったのに…(別に切腹して欲しいわけではありませんが)それでも、この子はソレを軽く扱う子なイメージはなかったんです。


夏と将馬のEDも、今回みたいな『死』がなかったら凄く微笑ましく見れたんですけど、全てぶち壊し。ももに関しては、ゆりか以上に九郎、雹共々に一切触れず、そのことが腹ただしくて仕方がない。
自分が起こしてしまったことが結果的に、一人の人間を死に追い詰めた、という事実を理解しているのでしょうか?


ランに関しては、正直言って非常識すぎて涙も出ません。個人的には彼女は大好きなんですが、普通あんな写真を校内新聞で使わないでしょ?死人の写真を公開することって、日本ではかなりのタブーで、それ以上にその遺体はクラスメイトのお兄さん。そして死の原因は自分達。
事実を公にする、という彼女の信念は素晴らしいですが、何処まで踏み入っていいと思っているんでしょう?
ジャーナリズム(特に日本)の道徳観念はとにかく希薄ですが、フィクションの世界にこんなリアリティはいらない。
道徳的に見て、彼女の行動は神経を疑わざるを得ない。



唯一少しでも救われたのが教師編の英雄先生。彼だけが雹を探してくれました。やっと、そこで救われた気がしました。教師編では、途中隼人先生の台詞で結構カチンとくることもあったのですが、それでもこの英雄先生には救われました。やっと。本当にやっと。
今回の隼人先生は微妙に酷くないですか?あんなこと言う人だったのかなぁ…
隼人先生も前作のイメージを崩されたひとりです。



伐失踪編で、ラスボス直前、雷蔵さんがやってきて 「遅かったか」 とか言うんですけど、知ってるなら何故もっと早く雹からその刀を取り上げておかなかったのか、など疑問が残ります。まぁ、直前まで気がつかなかったということもあり得る訳なんですけども。
けれど、雷蔵さんの態度はとても冷たくて。自分の養子にまでした人間が、今から死のうとしているのに何もしない。目の前の人間が死のうとしているのにただ、見てるだけ。怪我をしていて動けなかった、ということもあるでしょう。
だけど、それでも何か言葉が欲しかった。

忌野という家に生まれた彼を、そういった立場ではなく、一人の人間として。誰か見てあげて下さい。


分岐によっては醍醐が死にますが(この場合、雹は生きてますよね??)あれもどうか、と思います。
ていうか、中途半端すぎ。あの後とりあえず、九郎達とのバトルを入れるべきだと思うんですけど…作り方に疑問を感じます。
このEDでは、醍醐は前回雹に洗脳されたことを不覚として、自分を見つめ直す旅に出て、そこで九郎に見つかり洗脳されてそのまま死んだ。てことになるんですけど…あまりに酷い脚本じゃないですか?





全編を通して、カプコンが言いたかったのは 『友達もいいけど、自分ひとりでも立ち向かい、乗り越えられる強さを手に入れよう』 ということっぽいのですが(そうゆう台詞が所々入ってますし)
人の生死なんてものは、乗り越えるとか、乗り越えないなんてものじゃないです。


あと、何より痛ましいのが恭介たちが17歳という年齢であること。
もっと幼かったら、忘れることが出来る。もっと年を重ねていれば誤魔化し方を覚える。けれどこの年齢では、忘れることも逃れることも出来ない。この年代は子供と大人の中間で、残酷な時期です。
出来ることはただ、只管耐えることだけ。耐えても何も変わらないけれど、それでもそれしか出来ない。

私もこの年代の時に友人を一人、事故で亡くしましたが、やはり未だに。痛いです。
何年経っても、人の死は痛いものです。天命を全うして、寿命でお亡くなりになった方ですら痛いのです。無残に、途中で摘み取られてしまう命はもっと遥かに痛々しいものです。

そんな痛々しい感覚を、たった二週間という短い期間で日常生活に切り替えることが出来る彼ら。
私には薄っぺらい以上に、酷く寒々しく思えます。



これは『ジャズティス学園』というゲームの、そう、フィクションの世界=フィクションの命。そんなに重い物ではないのかもしれない。
けれどフィクションだからこそ、重く見てもいいのではないでしょうか?

結局、前作に引き続き雹は完全に被害者で、忌野という組織の中で父親の呪縛から解き放たれることなく、17歳という短い生涯を悲劇という形で締め括らざるをえなかったわけですが、これは本当にどうあっても回避できなかった形なのでしょうか?
結局彼は『人』ではなかった。扱いが。父の道具であり、一族の傀儡であり、彼の人格でさえも洗脳と言う形で侵されて、解放されても尚、乗り移られて操られる。
道具であるから、周りは壊れたところで涙せず、操っている方は自分の拳が痛まなければソレに気付くこともない。
ただ、彼が求めていたモノは恭介に対することでもわかる通り、ごく普通の情であり、家族であり、愛だった。
それこそ、与えることが可能だったハズの物。そして、誰ひとり与えなかった物。

ただ、優秀である、ということ。ただ才能豊かであるということ。それだけで17歳の少年を利用するだけ利用して。今回悲劇にまで追い込んだ。

そうゆう話なんですか?
前作のEDでは彼が幸せになれる可能性を秘めたものだったはず。それなのに、結局今回のEDにおいて、何一つ変わらないまま、変わる可能性を全て打ち消して、未来は絶たれた。


ゲームをやって、全ED見て、全分岐点見て、青春日記も全部見終わり、一応やり尽くして。とりあえず何回も泣いて、考えて泣いて、なんとか救いのある様に前向きに受け止めようとして。けれど死んでしまったことに、前向きも救いもないと、何も残ってなんかいないと気がついてやはり泣いて。
結局、疑問だけがもやもやと渦巻く結果になりました。


ゲームシステムとしては、良い作品だと思います。
システムはね。






これを書いたのは2001年の1月2日。(日付が入ってたので確か)
正月早々、鬱々しくて仕方がないですね…
けど、今読み直してみてあんまり変わってない自分に吃驚です。
きっと僕はずっとこうなんだろうな…このことに関してはずっと、ずっとこうなんだろう。て思いました。