夏の庭
「雹」
名を呼ばれ、顔を上げる。
「時間、あるか?」
「作れと言われれば作りますが・・・・」
「ああ、じゃあ付き合え」
そう言って、父は背中を向ける。
そのままひょいと中庭に降り、振り返ることなく進んでいく。
だから私は、途中の仕事をほっぽり出して、その背中を追った。
陽は沈んだが、微かに空にその赤い残光が残っている。
まだ月が出るには、少々時間の余裕があるだろう。
それでも全くの光量のない庭では、いくら慣れているとは言っても足元が覚束ない。
その上黒の着流しをまとった父の背中は、只でさえ闇の中に溶け込んでしまう。
けれど、「待って欲しい」とは言えない。
私はその背中を見失わないように、後を付けるしか出来ない。
父は庭を抜け、そのまま裏山に入っていく。
ますます光量を失い、獣道を進む父の姿は大分闇に慣れてきたとはいえ、見失いそうだ。
視覚だけに頼るのは止めて、全神経で父を追う。
気配、聴覚、視覚、嗅覚を総動員して、父の姿を追う。
しかしそれでも。
ふ、と父の姿が見えなくなった。
「---------------------・・・・・・・・」
瞬間、手を伸ばした。
指が、父の背中に触れる。
「あ・・・・・・・・」
自分の行動が信じられなかった。
今まで、父に手を伸ばしたことなどなかったのに。
私から父に触れることなど、考えられないことだ。
父は立ち止まり、振り返る。
殴られる、と身構えた。
が。
「・・・・早かったか?」
返ってきた問いかけに、殴られると構えていた思考は付いていかない。
沈黙しか返せないでいる私の答えを待たずに、父は伸ばしていた私の手をとった。
「足元、気ぃつけろ。後結構枝はってるから、目に入らないようにな」
身を案じる言葉。
繋がれた手。
引っ張られる。
共に、歩く。
余りのことに、脳が液化しそうだ。
快感物質と興奮物質が大量分泌されている。
こんなことが続けば廃人になる。不安になるほど、目眩く。
鼓動が早くなる。
方向感覚が解らなくなる。
それどころか上下感覚さえ、なくなりそうだ。
意識は全て繋がれた手にのみ。
そこから伝わる、父の体温にのみ。
殴られる一瞬でしか感じられない、父の手、熱、感触。
鼻の奥が、痛くなる。
どれだけ歩いたのかは解らない。
時間感覚など消え失せている。
唐突に止まった父の歩みに、私はつんのめって、父の背中に肩をぶつけてしまった。
瞬間的に、殴られることに体は強ばる。
けれど父は肩越しにちらりと、こっちを見るだけだった。
「丁度だ」
「・・・・は?」
顎で示す方向に、一本の樹。
「見てみろ」
言われて、名残惜しいが繋いだ手をほどいて樹に近付いた。
最初は何か解らなかった。
樹のうろと同化してしまっていたために、それがなんだか解らなかった。しかし、それが微かに動いて、やっと認識した。
「・・・・・・・蝉・・・・・・・」
そこには、茶色く固い殻を脱ぎ捨てて、成虫へと変化を遂げようとする蝉の姿があった。
微かに罅割れた殻の間から、薄緑色の、半透明な、まだ未熟な体が覗く。
月の明かりに照らされ、ゆっくりとゆっくりと、殻を脱ぎ捨てていく。もどかしくなるほどのスピードで、しかし確実に成虫へと。
折りたたまれていた羽根を伸ばし、生まれようとする姿があった。
幼虫から、成虫へと。
殻を破りい出て、飛び立つまで。
私はその姿に見入っていた。
飛び立った蝉を目で追って、仰いで見た月の位置で我に返った。
月の位置からして数時間ほど経過している。
「・・・・っ、父上っ」
「ああ?」
慌てて振り返ると、来た時同様に父はそこにいた。
同じ場所で、立っていた。
私が見入っている間、ずっとこうして待っていたことになる。
それが信じられない。そして申し訳ない。
「・・・・あのっ」
「綺麗なもんだろ?」
謝罪しようと口を開くと同時に、父は笑った。
「夕方に見つけてな。今晩羽化しそうだったから、見せてやろうと思ってな」
言葉を失う。
そして今度こそ、涙ぐんでしまう。
「雹?」
「・・・・ちょっと・・・・感動しただけです・・・・」
ぐずぐずと鼻を鳴らし応える私に、父は呆れた視線を投げかけた後肩を竦めて
「ま、生命の誕生の神秘なんて呼ばれるものは、感動がお約束みたいなもんだがな」と締めくくり、私の泣き顔から目を反らした。
蝉にも感動したけれど、それ以上に貴方の言葉に感動したのだと、言おうかとも思ったけれど今度こそ殴られそうなので私は口を閉じる。
けれど涙は止まりそうに無かった。
「ほら、帰るぞ」
暫く泣くに任せていたのだが、埒があかなくなって父はぶっきらぼうに言い放つ。私は袖で涙を拭いてから、父の方に向き直った。
「・・・・はい」
返事を返すと、父は口元を歪めて笑みを作る。
この、嫌味で不遜で独善的な笑みが堪らなく好きだった。
自信家で、誰の指図も受けず、唯我独尊を貫き通す。
反感を抱くか、ついていきたいと思うか、そのどちらかしかない器。
この笑み一つで、『忌野最凶』と謳われた意味が見える。
私が憧れ、崇拝し、追いつきたいと、認められたいと願って止まない形がここにある。
嬲られようとも、殴られようとも、殺されようとも、利用されようとも。
そんなことどうでもよくなるモノが、ここにある。
そんなこの人の全てに、焦がれる。
焦がれ、狂いそうになる。
「ほら」
差し伸べられた、手。
「行きより大分暗いからな。気をつけろ」
信じられずに呆然とその手を見つめ、そして繋いだ。
来た時同様に、引っ張られ繋がって共に歩く。
納まりかけた涙が、またぼろぼろと溢れた。
ぼろぼろと、ぼろぼろと、こんなにも泣けるものなのかと不思議になるほどに涙は溢れた。
「・・・・父上」
「ああ?」
父の頭上に月が浮かんでいる。
その月をぼんやりと眺めながら、夢現で私は言葉を紡いだ。
「有り難う御座います・・・・」
「はっ・・・・。どうでもいいが、お前屋敷に着くまでに泣きやめよ? そうでないと、また燦斬に何言われるかわからん」
その父の言い草が可笑しくて、私は吹き出し笑いながら繋いだ手に力を込めた。
これが夢ではないように祈りながら、強く、握った。
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