触らないで

 

パン。

 

思った以上に、その音は高く響いた。

振り払った貴方の手は、空中で所在なさげに。

 

 

「…悪い」

 

何も貴方は悪くないのに。

ただ、私の頬についていた睫毛を取ってくれようとしただけなのに。

それだけなのに、貴方は私に謝罪して。

私はどんどん。

どんどん。

イヤな子になる。

素直に謝れば。

今すぐ「ゴメン」て言えれば。

何事もなかったように、さっきまでの何でもない昼休みの続きを再開出来るのに。

なのに。

 

貴方の手が、少しずつ鮮やかな色に染まっていく。

強く叩いてしまったから。

その色が、私を少しずつ固く硬くしていって。

 

俯いてしまう。

 

昔はもっと、いい子だったの。

昔はもっと、素直だったの。

ちゃんと出来る子だったの。

 

もっともっと。

きちんとした人間だったのに。

 

「ほら」

 

手渡された小さな手鏡。

そこに写ってるのは、泣きそうな顔をした小さな私。

頬に睫毛が一本ついてる。

 

「…ありがとう」

 

消え入りそうな声でそれだけ言った。

 

 

前の恋ではこんなんじゃなかったのに。

臆病になったわけじゃなくて、相手があまりにも私の可愛くない部分ばかり知ってるから。

憎まれ口ばかり叩いて、罵ったこともある。

物をぶつけたことも、叩いたことも。

呆れさせたことも。

 

大嫌いだった。

大嫌い。

 

 

大嫌い。

 

 

昔はもっと可愛かったの。

もっともっと、可愛い女だったはずなの。

ちゃんとお礼だって言える。

ちゃんとゴメンナサイだって言える。

 

なのにどうして、あなたの前だと私はこれっぽっちも可愛くない女になってしまうのだろう?

 

貸してくれた手鏡を返す。

ほんの少しだけ触れた指先に、必要以上に意識して。

慌てて自分の手を引っ込める。

 

まるで避けているように。

腫れものに触るみたいに。

 

 

だから。

貴方がその表情を険しくしても当然だと思う。

素直な貴方が、そんな顔をするのも当然だと思うの。

唇の裏をほんの少し噛む、よく見る貴方の不機嫌な。

 

「…悪かったな」

 

吐き捨てられた言葉に。

何も答えられなくて。

 

ゴメンナサイ。

そんなつもりじゃなかったの。

ちょっと吃驚しちゃったのよ。

 

たったこれだけ伝えればいいだけなのに。

 

それだけ。

たったそれだけでいいのに。

 

 

 

私に向けられる背中。

そのまま立ち去る貴方を、私は追いかけることも呼びとめることも出来ずに。

ただ、その場に。

 

 

指先に微かに残る、貴方の残熱。

それだけに縋りついて、ただただ背中を見送るしか出来なかった。

 

 

最近、こんな風に鼻の奥がどうしても痛くなってしまう。

背中が見えなくなったと同時に、上を向いて。

 

 

滲んで歪んだ空を眺めた。

 

 




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