甘い悩みと偏頭痛


(一)

  

晴れて目出度く婚約まで行きついた。

 

親友に言わせれば、やっと。だったけれど。

 

しかし、いざ決まったとは言え、それは互いに約束を交わしただけの話であって。まだ相手の親に許しを得たわけでもない。

まぁ、それについては近いうちに時間を見付けて挨拶に伺う算段ではあるのだけれど。

 

彼女曰く、一緒に住むようになってから、一度挨拶に行っているんだから気にすることはない、とのことなのだが。

そうはいかないだろう。

ここはキチンと押さえておかなければならないポイントだ。

 

そして、何より。

実際約束を交わしたとしても、その約束が果たされるまでまだ暫くかかりそうであることは事実で。

 

一国の騎士団長を務めている身とすれば、なかなか纏まった時間を取ることが難しく。

また国の事を考えれば、祭事などの時期は仕事に従事しなければならない。

そう思えば、式の日取りを決めるのも難しく。

姫は『気にせず、バ〜ッと休んで新婚旅行でもなんでも行けばいいのよ』と豪気な発言をしてくれたが。

そんな言葉に甘える訳にもいかず。

 

そして彼女は、といえば。

『そんな豪勢な式なんてしなくていいから。別に今度の休み、とかそんな感じで結婚式してもいいんじゃない?』と言うが。

流石にそれは憚られる。

というよりも、やはり『結婚式』というものは特別だ、と思う。

それは自分にとって、というよりかは女性にとって。

 

今はそう言ってくれているが、後々後悔するようなことはしたくない。

勿論、豪奢な式にするつもりはないが(いや、彼女がそれを望むのならばやぶさかではないが)それでもキチンと。

みんなに祝福してもらえるような、そんな式をあげたい。

 

そして、再び。

カレンダーに目を落とす。

 

カレンダーにはあらかじめ決まっている年中行事が記入されている。

そしてそれに加えて自分の予定、彼女の予定も。

 

少なくとも。一週間くらいは休みを取りたい。

しかし、実際にそれだけの休みを取るとなると、なかなか難しかった。

これでは約束を果たすのは何時になるのか。

 

俺は溜息をついた。

 

 

§§§§§§§§§§§§§§§§

 

 

しかしそれでも。

何時になるかは解らないけれど、確約された未来がある、となると彼女は安心するようで。

(いや、これは今までの俺の態度によって与えていた不安が解消されたから、とも言えるけれど)

彼女は婚約した日から、本当に毎日幸せそうで。

 

自分の言葉、自分の行動がこんなにも彼女を満たすことが出来るのか、と。

そのことに慄きそうになるけれど。

それでも、身不相応な充足感と幸福に包まれた。

 

俺が彼女の存在で満たされるように。

彼女もまた、俺の存在で安らぎを見出せるのならば。

それはこの上ない幸福だろう。

 

 

しかし、この状況はまた。

俺を窮地に立たせた。

 

 

警戒心が強い、とは決して言えない彼女だが。

ここ最近は更にそれに磨きをかけて、『無防備』と呼んでも差し支えのない程の態度で接してくる。

 

婚約した、とはいえ。

結婚するまで手を出すことは出来ない。

 

それは男が示さなければならない最低限のマナーであるように俺は思う。

 

しかしそれでも。

その『結婚』がいつになるか解らない今。

 

目の前で無邪気な程に無防備に振る舞われるコレは。

 

 

正直、拷問に近い。

 

 

彼女の体温が。

そして呼吸が肌に触れる。

 

抱きついてくる。

甘える様に凭れかかってくる。

 

その仕種は何処までも無邪気で。

だからこそ、余計にたちが悪い。

 

 

今もまた。俺の背中に彼女の頭が押し付けられる。

凭れかかり、心地よい重さと、体温、そして柔らかさが否応なく感じられて。

 

自然と、喉が鳴る。

口の中が渇く。

 

 

いつまで。

いつまで続く?

 

痛みを伴うような、血を吐くような、そんな肉体的な拷問ならば耐えきれる自信があるが。

この甘い拷問に耐えきれる自信は、日を重ねるにつれ徐々に喪われつつあった。

 

 

§§§§§§§§§§§§§§§§

 

 

そして今日。

 

いつもなら『オヤスミ』と告げて、自分の部屋に戻る彼女が未だに隣にいる。

俺は持ち帰った仕事の書類を机の上に広げて、入念にチェックを入れてる最中だったのだが、何度目かの彼女の欠伸で顔をあげた。

 

「…寝ないのか?」

 

俺の問いを、曖昧に笑って誤魔化して。書類を覗きこむ。

 

「これってなんの書類?」

「再来週にパプ二カを訪問するロモスの高官の警護の最終調整書類」

 

応えてやりながらも、彼女がこれに興味がないことも解っている。

だから今のは純粋な世間話だろう。

 

彼女は「ふぅん」と頷いて、俺の手元の書類をしげしげと眺める。

眺めたところで、記号やら走り書きやらで、判読するのに難航する文書で。

これは関係者以外見ても、理解出来ない可能性が高い。

彼女も例に漏れず、よく解らなかったようで小さく肩を竦めて顔をあげた。

 

それを見計らって、もう一度問う。

 

「マアム、寝ないのか?」

 

疑う必要もない程に。彼女は眠そうなのだけれど。

何故か彼女は眠りたくないらしく、空になった俺のマグカップを持って。

 

「珈琲、お代り淹れてくるね」と立ち上がった。

 

 

 

台所で自分の分と、俺の分の珈琲を淹れて戻ってくると。

先程と同じように、ちょこんと俺の横に収まる。

普通に座れば余裕があるのだけれど、横向きに。

しかも膝を抱いて座るものだから、ソファは手狭になる。

結果的に俺の肩口に彼女の背中が押し付けられる形になるが、彼女はその姿勢が落ちつくのか。

動こうとしない。

 

質問に応えるつもりはないらしい。

 

俺は自分の左側から感じる彼女の熱を必死に追いやって、目の前の書類に集中した。

これを今日中になんとかすれば、週末時間が取れる。

そうすれば、彼女の母親のもとに挨拶に行ける。

 

そう。

だから。

 

 

それからなんとか30分ほど集中した。(いや、集中出来ていたかどうかは怪しいものだが)

しかし視界の端の彼女の首がかくん、と。

眠気に負けて傾いたから。

 

一息。

 

「マアム。眠いなら、部屋に戻りなさい。

 それとも、何か俺に話したいことがあるのか?」

 

問えば、眠りかけていたのだろう。びくり、と身体が震えて。

そしておずおずとこっちを伺うように振り返る。

 

「…どうした?」

「…うん…あのね…」

 

やっと。

決心したらしい。

 

空になったマグカップを手の中で弄びながら、マアムは眠くて何処か舌足らずになった口調で今日あったことを話した。

 

ボランティアとして、修復復興の手助けをするために半壊した教会に行った彼女はその歴史のある教会の不思議な話を聞いたらしい。

言うなれば、『怪談』と呼ばれる類の。

 

で、結果すっかり。

 

怖くなってしまったようで。

 

自分でも子供のようでみっともないと思っているのだろう。

話ながらも、だんだんと耳が赤くなってきている。

頬も心なしか上気して。

 

情けない、とか。子供っぽいとか。

そんなことは抜きにして、純粋にそんな彼女は微笑ましく、可愛らしかった。

俺は笑いを噛み殺しながら。そんな彼女を眺めていたのだけれど。

 

彼女が意を決したように。

 

 

「あのね…だから一緒に寝て欲しいんだけど」と言った瞬間に。

 

 

「じょっ!」

 

冗談ではない!と叫ぶのはなんとか堪えた。

流石に『冗談ではない』という言葉は、下手すれば侮蔑にしかならないだろうし。

悪戯に彼女を傷つける可能性がある。

 

彼女が言う『怪談』に出てくるような『幽霊』や『お化け』なんてものは、俺にとって馴染みのものにすぎず。

そこに恐怖を感じることはない。

多分、俺はあまり普通な育ち方はしていないから感覚が違うのかもしれないが、幽霊や骸骨、腐った死体なんてものは全て人間のなれの果てで。

自分の将来の姿、そして人間の未来の延長線上だ。

そこに親近感を抱きこそすれ、どうして恐怖を抱くことがあると言うのだろう?

 

昔、親友にそれを問いたら、『なれの果ての姿だから嫌悪と恐怖を抱くのさ』と返されて、成程、とも思いはしたが。

それでも納得は出来ない。

理解は出来ても、納得は出来ない。

 

なれの果てに恐怖を抱くよりもっと身近な。

『人間』という生き物に恐怖を抱く方が、俺にはピンとくる。

そう。

そんなものよりも、『人間』の方が遥かに恐ろしい。

 

言えば親友は『違いない』と猫のように笑ったが。

 

 

さて。

彼女はそれが解っているのだろうか?

いや、解っている筈がない。

解っていれば、こんな発言は出ないだろうから。

 

幽霊やお化けなんかよりも。

今、横にいる俺の方が何倍もたちが悪い。

 

 

乱れた呼吸をなんとか落ち着けて。

なんとか彼女も納得する妥協案を探す。

 

 

そして結局。

 

「俺はまだ仕事が残ってるから一緒に寝てはやれないが、部屋のドアを開けておけばいいだろう?

 明かりも入るし、ここに俺はいるし」という、子供騙しな提案を。

 

しかし、彼女は(多分に自分が仕事の邪魔をしているという後ろめたさもあったのだろうが)容易に納得して。(それかもう眠くて仕方がなかったか)

「解った、ありがとう」と了承した。

 

 

大分限界が近かったのだろう。

フラフラと寝室に向かい、言う通り扉を開け放って。

 

一度だけ振り返り、恥ずかしそうに笑いながら

彼女は「オヤスミナサイ」と呟いた。

 

 

曖昧に頷いて返事を返すが。

まるで誘うように開け放たれている扉から意識を避けることはなかなか容易ではなく。

 

結局、折角持って帰ってきた仕事も捗らないまま。

空は徐々に白けてきた。

 

 



背景素材提供 オヨネ 様