01 鮮やかな、その花

 

こんなはずではなかった。

男は苛立ちを隠す余裕もなく、目の前にあった文箱をひっくり返した。

細工の施された見事な墨と、飾り硯が派手な音を立てて砕ける。

そして黒い墨が、まるで血だまりを作る様に畳の上に流れて醜い染みを作っていく。

それを忌々しげに睨み、一向に収まらない腹立ちと増した苛立ちに後ろに下がっていた部下を思い切り殴りつける。

鈍い、肉の打たれる音とくぐもった声。

暫くそれが続き、そのうち静かになる。

 

それを見計らって、かの男の細君が部屋に立ちいれば、そこには目を覆いたくなるような凄惨な光景が広がっている。

過度の破壊衝動の発散によって肩で息をする男の足元には、長年仕えてくれた部下が人相すら解らない形相で倒れ伏していた。

まだ微かに息はあるようだが、きっと長くは保たない。

それだけ見て、細君は部下から目を反らした。自分の夫の姿も、視線から追い出す。

 

「…当たっても仕方ないでしょう?」

 

そんなことをしたところで、何がどう変わるものでもない。

自分達の進退はもうどうしようもないところまで来てしまっているのだ。

引き返すことも、なかったことにも出来やしない。

 

「まだだ!まだ…」

 

何処までも未練たらしい。

そんな夫の姿を辟易した心情で眺め、そしてくだらない男と人生を共にしたものだ、と自分に対しても辟易する。

どうせなら、もっと潔い男と一緒になりたかったものだ。

こんな状況で足掻いたところで、みっともないだけ。

自業自得なのだから。

 

 

所属する家である忌野は、今現在混乱の真っただ中にある。

結局、先代(雷蔵の父)が保守派だったのに比べ、忌野霧幻はあまりに革新派でありすぎた。

そして暴力的でありすぎた。それは忍び集団ではなく、テロリストと呼ばれもおかしくない程に。

実力次第で取り立てるその手法は多くの人材を発掘し、そして成長させた。

実力がなければ、長年仕えていようが容赦なく切り捨てた。

結果、霧幻の周りには若い人材を中心に、一種の宗教のような心酔があり、それが一層先代派との溝を深めた。

そして結局、先代と霧幻は理解し合うことなく、次期頭首は弟の雷蔵に譲られ、霧幻は自分の長男、雹を連れて出奔、失踪する。

しかし父親や、その周りの人間の予想に反して頭首を引き継いだ雷蔵もまた、革新派であった。

忌野の教育技術、研究成果を使って表社会を作り直す。忍びの長年培った技術を流出すると言い出したのだ。

結果、先代に仕えた保守派の反対により、雷蔵もまた出奔する。

そして頭首不在の混乱期が忌野に訪れた。

頭首の血を継いでいるとはいえ、忌野に残された霧幻の次男、恭介もまだ幼く頭首を襲名することは事実上不可能。

その間、保守派による英才教育を一身に受け、次代頭首として頭角を現してはいたが、そんな矢先、出奔していた忌野霧幻死去の報とともに長男である雹が忌野に帰還する。

長男であるために、頭首の後継権は雹の方が順位は上にくる。

雷蔵襲名から暫く潜めていた霧幻派の過激派たちも雹帰還に息を吹き返し、混乱は更に大きくなった。

 

そして数年が経過して、忌野雹は頭首の席のまま出奔した雷蔵の暗殺の命を受ける。

これは保守派も過激派も一致した意見で、暗殺が成功した暁には雹の正式頭首襲名となるはずであったが。

雹の裏切りと共に結果は失敗に終わり、雷蔵は再び忌野に返ることとなる。

 

先代もこの世を去り、先代に付いていた保守派も随分と高齢の者が多くなり、この長期の混乱で忌野の家自体の力も疲弊していた。

謀反出奔し、本来なら帰ることなど叶わないはずの家に雷蔵が戻ることが出来たのはこうゆう背景からである。

 

混乱に乗じて、足を引っ張り合うことも多くなり、家の中で疑心暗鬼に縛られる。

内輪もめで身動きが取れなくなっていた上役達は、雷蔵帰還を受け入れざるを得なかったのである。

そもそも忌野は実力がものを言う家だ。

どれだけ横暴だろうとも、実力さえあればまかり通ってしまうところがある。

自分達が送り込んだ刺客による暗殺が失敗してしまった今、自分達は敗者の立場にあった。

 

そして。

最後の悪足掻きの保身に走る。

総て、雹の仕業で自分達は預かり知らないことだ、と。

 

自分達が送り込んだ刺客であるにも関わらず、総ての責を雹に押し付けた。

霧幻と雷蔵は仲の良い兄弟ではなかったし、雷蔵には息子がいる。雹はどうあっても失墜する立場であったし、それならば総ての罪を被せて、最後に役に立って貰おうと。

立場の弱いモノにすべてを押しつけて切り捨てる。お約束と言えばお約束な、そしてどうあっても決して美しい行為とは呼ばれない醜態を。

過去に幾度と繰り返された愚行を、選んだ。

総てを押しつけて、自分達の保身と再起を図った。

 

が。

 

しかし結果は、雷蔵により雹は不問になり。

そして正式に頭首を雹に襲名させるという予想だにしない事態となった。

 

総て雹に押し付けてしまえ、と改竄に改竄を重ねた記録。

自分の保身のために雹に総てをなすりつけた者達は皆、戦々恐々となった。

切り捨てようとしていた者が、自分達を切り捨てる側になったのだ。

今更、取り消すことも取り入ることも出来ない。まさに自業自得。誰に恨み事を吐ける訳でもない。

 

そして今日。

男の元に本家から正式に文が届けられた。

 

その文を読ませてもらってはいないので、内容は推し量るべし、だが。男が今までやってきたことを鑑みれば、斬首を命じられてもなんらおかしくはない。

 

 

ぶつぶつと、うわ言のように繰り返される言葉。

「まだだ、まだだ」と。

一体、何が起こると信じているのか。

再起が可能だと思っているのか。

 

だから。

女は総てを断ち切るように一言だけ。

 

「何もかも。後の祭りですわ」と。

 

吐き捨てた。

 

 

ビキ、と筋が固まるような音を立てて。男が硬直する。

立ち尽くす。そんな表現が相応しい程に呆然とした顔で。

男は何処とも知れず、ただ視線を彷徨わせた。

 

 

長い沈黙の果て。

部屋に充満する墨と血液の臭いと、一切の動きを止めた空気の重さに耐えきれないように男はフラフラと部屋と庭を遮る硝子障子に近づいて、それを開け放った。

 

 

瞬間。

総てを凍てつかすような冷たい空気が流れ込んでくる。

 

無意識に目を細め、そして再び目を開いた時に。

 

 

それは。

 

そこに。

 

 

庭に植えられた垣根の椿を背にして立つ。

その人形のように整った顔。

色に見離された絹糸のような髪。

猫のように金に輝く瞳。

微かに、桜の花弁のようにほんの微かに色付く唇。

 

男は無造作に椿に手を伸ばして、一輪、手折った。

 

その花をそっと、香りを楽しむように顔に近づける。

白い面に生える毒々しいまでに赤い椿の花が、目に残光を残す。

 

見間違えるはずがない。

こんな男はこの世に一人しかいない。

余りに美しく現実離れした容姿と、その纏った独特の空気。

絶対王者の、覇色の気。

父親である忌野霧幻に通ずる、そして彼特有の。

 

忌野雹。

正式に襲名を受けた、忌野頭首。その人がそこに立っていた。

 

その様は、まるで現実感を伴わず。

夢と悪夢を綯交ぜにしたような。

現実という野暮なもの一切を排除したような。

そんな様で。

 

「…雹…様…」

 

数日前まで。罵倒と雑言で悪し様に罵っていた者に対して『様』をつけて呼ぶ。

そんな夫に、同情にも近い憐憫を抱く。

 

先頭に立ち、指をつきつけて糾弾せよ、と。

責を果たせと叫んでいた男の横顔は、今や覇気がなく、どこまでも情けない男のソレだった。

 

 

彼はこちらに一切の興味がないように数秒。香りを楽しむように花を愛で、そのままじっと。

そしてその後、視線だけ、こっちに向けた。

 

 

 

その瞬間。

夫はくぐもった、声とも息ともつかない音を立てて崩れ落ちた。

愕然と自分の夫を見れば、その首の辺りからどくどくと、今まで部屋を汚してきたどんな血液よりも多い量の血液が流れ出していく。

この肉体に一体どれだけ水が詰まっているのか、と。驚愕する程に。

 

一瞬で起こったソレは悪夢とも認識出来ず、現実とも認識出来す。

ただ、わけがわからないという混乱だけ。

 

一切の未練を断ち切られた身体は、ピクリとも動くことなく。

そのまま肉の塊へと、私の理解を待つことなく変わっていこうとする。

 

 

「雹さん。片付けますか?」

 

声はすぐ隣りから。

夫が死んだことに麻痺していた身体がこの瞬間、ビクリと震えて飛び上がった。

 

横を見れば、忌野では知らない者はいないだろう。忌野雹の頭首付きにして、筆頭護衛。忌野に燦斬有とまで謳われた、現役で唯一二つ名を冠することを許された男が立っていた。

彼の持っている武器は抜き身の忍者刀。これが夫の命を刈り取ったことは疑いようもない。

二つ名『疾風迅雷』

この名前に恥ずることなく、まさしく疾風迅雷の如く。

 

「放っておけ。奥方に否はなかろう?」

 

言われ、『片付ける』の内容が自分のことだと気が付いた。

 

抜き身の刀が、懐紙に拭われて収められるのを。

未だに理解を拒む思考のまま、ぼんやりと眺めて。

 

私はとうとう。

その場に崩れ落ちる様に、しゃがみ込んだ。

 

溢れ、乾く間もない夫の血液がどぶどぶと染み込んだ畳がまるで腐ったような音を立てて私を受け止める。

そしてそんな私に興味を示すこともなく、現れた時同様に、まるで何事もなかったように。

この世界の醜いモノ一切から切り離されているように穢れなく。

何処までも、現実味から遠く離れている男は、鮮やかな残光を残して背中を向けた。

 

 

彼の背中を追うように、部屋から燦斬が出て行く。

その姿もまた、今人を殺したような、そんな不浄とは縁遠いようで。

 

私はただ、ぼんやりと。

この醜く、汚れた現実の中で蹲るしかない。

 

 

最後に一度だけ。

彼は振り返って。

 

手慰みに持っていた、赤い紅い椿の枝を放った。

 

 

鮮やかな。

鮮やかな。

悪夢と現実が交差する。

 

最後に見た彼は、微かに笑っていた様にも見えた。

 

自業自得とはいえ、自分の夫を殺す命を下した現忌野頭首。

その存在は畏怖し、恨むことはあれど、惹かれることなどあり得ないはずなのに。

 

 

それでも。

ただ、ただ、彼は美しく。

 

私はただ、夫の血だまりの中で魅了されるしかなかった。

 

 

 

 

 

 

背景素材提供 妙の宴 様