手のひらと陽だまりと




甘い匂いがする、と。微かに空気に混じるその匂いに、意識を無意識に集中していた。

だから、いつもは聞き逃すことのない彼女の足音を、すぐ其処に来るまで気付かなかった。

角を曲がって、姿を現した彼女は。

だから、一瞬きょとんとして。

「珍しい。驚いた顔をしてる」と。

悪戯が成功したように、嬉しそうに。無邪気な笑顔を見せた。

その無邪気さに、毒を総て。抜かれそうになる。

だがソレでも釘は刺さなければならない。

全くの不本意ではあるが、それでも。

「ソアラ。何か用件が?」

 

彼女はこの国の王女で。

国に所属をしたことも、それこそ同族すら得たことのない私には全く預かり知らないことではあるけれど。それでも。

それは変えようのない真実で。

そしてそこには、全く理解できない慣習や、しきたり、決めごとが存在しているらしく。

事あるごとに、注意を受けた。

 

その注意を破ることになんの躊躇いもなかったが、彼女が叱られることは本意ではない。

そして、その注意をしている人間達(彼女の侍女であったり、騎士団長であったり、彼女の三人の兄であったり)も総て。

彼女を想っての意見であることは理解出来たから。

だから、約束をした。

 

滅多やたらに、会うことはしない、と。

 

しかしそれでも。

なんだかんだと用事を見付けては、彼女は私の元にやってくる。

表向きは彼女の客人であるから。『客人を招待した私はおもてなしをしなきゃならないでしょう?』と笑う彼女はとても楽しそうで。

誰かが心配するから、とか。

要らぬ誤解を受けるから、とか。

そんな色々な言葉を気にすることなく、こうして通ってくる。

 

私は約束した手前、とりあえず彼女に注意をしなければならない。

なんの用事があるのだ?と問わなければならない。

これも正直、理解出来ないことだったが。

それでも傷が完治した今、(いつでも出ていけるのにも関わらず)客人として部屋を与えられている身分とすれば(とは言っても、引きとめられているので、それに対して引け目を覚える必要はないのだが)この家のルールや主の意見には従うのが当然だろう。

納得は出来なくとも。

だから私は、とりあえず決まった文句を言うように。

「何か用件があるのか?」と彼女に問う。

勿論此処で、彼女が「特に用事はない」と応えた所で、追い返すことはないのだが。

それでも、彼女が。どんな些細な用事にせよ、用事を用意してこなかったことはない。

 

まるで茶番だ、と思わなくもないが。

これはこれで楽しい。

 

ソアラは私の質問に、意味ありげな笑みを浮かべて。

恭しく、後ろ手に。隠す様に持っていた小さな包みを取り出した。

 

「バランは甘いモノ、平気?」

 

正直言えば、苦手だが。

彼女のその笑顔が『平気』以外の答えを望んでいる筈もないので。

訳も解らないまま(とは言っても、敢えて聞くということはその小さな包みの中身が甘味であることは想像出来た)とりあえず「大丈夫だ」と応えた。

だが。

「嘘。苦手なんでしょう?」と。

総てを見透かして、少し困ったような顔をして。

「別にそんな気を使ってくれなくてもいいのよ?」

「そうゆうわけではない…

別に甘いものを食べた所で死ぬわけではないし。

身体に害を成すわけでもないし。

時には、疲労が溜まってる時などは自発的に欲することだってある。

だから『大丈夫』という返事に嘘はない。

『平気』ということは『大丈夫』と言うことだろう?なら…」

「はいはい」

続けようとする私の言葉を遮って。

彼女は、これこそ『甘いもの』だと思えるような笑みを浮かべる。

そして、その小さな包みを私に向けて。

「じゃあ、きっとこれも平気ね」

差し出されたソレを。

良く解らないまま、受け取って。

付けられているリボンが、昔彼女が集めていると言って見せてくれたコレクションのひとつだと気付いた。

上品な、薄いゴールドの光沢のあるリボン。

そっと撫でれば、指触りの良い、滑らかな感触が楽しい。

そして解くと、その瞬間。彼女がつけている物と同じ香水の匂いが、微かに漂った。

ハンカチなどの身の回りにも、さりげなく匂いを付けたりして楽しむ。

そんな彼女の。特に彼女が意識をしているわけではない、可愛らしい部分に。

つい、笑みが零れる。

 

包みをほどくと、中から一口サイズの焼き菓子が1ダース程。

 

「あのね。ココアとオレンジピールで、そんなに甘くしてないから。

 それにブランデーも多めに入れたから、きっとバランも平気だと思うの」

 

包みを開けた途端に言い訳のように。彼女は言葉を捲し立てる。

言い訳の必要など微塵もない程に、手の中の焼き菓子はどれも見事な出来栄えに見えたし、また香りも良かった。

 

「でもね、もし口に合わなかったら勿論捨ててくれてもいいし。

 甘過ぎる!って思ったら言ってね?次はもうちょっと控えめにするし…

 あのねっ…」

「はいはい」

 

まだ続けようとする彼女の言葉を、今度は私が遮って。

差し出した時のまま、空中を落ちつきなく彷徨っていたその手を捉まえて。

 

「ありがとう」と礼を告げ。

そっと、その桜の花弁のような可憐な爪のついた指先に口付ける。

 

ずっと包みを持っていた所為か、彼女の指先からも包みの中身と同じ匂いがした。

 

 

 

 

外はまだ寒いけれど、日当たりの良い窓辺に立てばその日差しは暖かく。

ガラス戸に背中を預ける様に、二人床にしゃがみ込んで。

私が用意した珈琲と、彼女が用意した焼き菓子。

私には必要のない砂糖とミルクは厨房から拝借してきた。

 

彼女の言う通り、甘さを控えめにしてブランデーを利かせた焼き菓子は甘いのが苦手な私でも充分に堪能出来るものだった。

それでも一個食べるごとに「美味しい?」「甘くない?」「食べられる?」と心配するので。

「無理だと思えば食べない」と応えれば

「貴方は私が作ったのなら、きっと無理して食べるわ」と。なんとも自信過剰な発言を。

 

「不味かったら食べないさ」

「本当に?」

 

覗きこまれる、その瞳に。

きっと、こんな風に覗きこまれて「美味しくない?」とか聞かれれば。

我慢してでも、きっと食べてしまう自分の姿を容易に想像出来てしまって。

不承不承、認めるが。

それでも、今回の焼き菓子を我慢して食べているわけではないので、そこは譲れない。

 

しかし彼女も譲れない部分があるのか。

それでも「残しても、構わないからね?」と。尚も言うので。

 

その唇を、塞ぐことにした。

 

 

 

「……」

「………」

「……ちょっと苦い……」

「私好味に作ったんだろう?私には丁度だ」

 

 

 

赤らめて、やっと黙った彼女を横目に。

本当は半分程残して、後でまた楽しみたい気もしたが。

それでも残せば、また彼女が変な誤解をしそうだったので、総て平らげることにする。

 

 

 

最後の一個を口に放り込み、余韻を楽しんで。

そして。

疑問を口にする。

 

「で、なんで急に菓子を?」

「なんでって…今日はバレンタインなのよ、バラン」

「バレンタイン?」

 

怪訝な顔をする私の顔を暫く彼女は眺めてたけれど。答えが導きだされないことに痺れを切らして。

 

「この国では…って多分、そんなにマイナーな行事じゃないと思ってたんだけど…

 バレンタインデーってね

 好きな人にチョコレートや、甘いものを渡したりして 想いを伝えたり、気持ちを確かめあったりする日なの」

 

その説明に。

そう言えば、そんなことを聞いたことがあるような、ないような…

記憶を探るがなかなか上手くいかない。

多分興味もなかったから、話を聞き流していたか、本で読んだ程度の知識だったのだろう。

だから見切りをつけて、聞くことにする。

 

「それは、女性から男へするものなのか?」

「男女関係ない、とする国もあるみたいだけど、アルキードでは女性から男性に贈るのが一般的ね」

「じゃあ、私からは君に何をすればいい?」

「男性からは、ホワイトデーって言ってちゃんとお返しする日があるの。来月の、今日よ」

「…その日も甘いものを用意するのか?」

甘いものを用意するのは、女性程簡単ではない気がするが。

それとも世の中の男は、ケーキ屋に入ったり甘いモノを用意することをそんなに躊躇しないものなのだろうか?

「キャンディとか、マシュマロとかって言うけど…別に何だっていいと思うわ」

なんだっていい。

これは一番困る。

だからそう言うと。

彼女は来た時と同じように、悪戯めいた表情をして。

 

「考えて。私のこと。

 私も作ってる間、ずっと考えてたもの。どうしたら喜んで貰えるかって。

 だから、貴方もそんな簡単に降参しないで」

 

そんな風に言われてしまえば、考えないわけにはいかない。

だから、渋々了承して。

そしてまだ、可笑しそうにクスクスと笑っている彼女に、釣られる様に苦笑を。

 

そっと。

彼女が私の手の上に自分の手を重ねてくる。

それを拒むことなく、そのままにして。

伝わってくる、彼女の体温にじっと。集中する。

 

背中から伝わる陽だまりの暖かさと。

手から伝わる彼女の暖かさ。

 

どれも酷く心地よくて、つい。微笑んでしまう。

 

 

 

きっとあと少ししたら、侍女なり誰かがやってきて彼女を急きたてて連れて行くだろう。

それも何時ものこと。

だけど、願うならもう少しだけ。

もう少しだけ、この陽だまりで彼女と一緒にいたい。

 

私の考えを見抜いたように、瞬間。重なっていた彼女の手が、ぎゅっと私の手を握る。

顔をあげると、初めて見た時同様の。

まるで太陽の様に暖かく、穏やかな笑みを浮かべながら。

 

「時間が止まったら素敵なのに」と。なんとも魅惑的な提案をする。

 

流石に竜の騎士でも時間を止めることは出来ないが。

同意であることを伝える為に、手を握り返す。

 

「明日も良い天気かしら?」

「さぁ?だが雨でも楽しいさ」

「そうね。一緒なら」

「明日はどんな用事を?」

「そうね…考えなくちゃ」

 

些細な会話。

そして互いに、堪え切れなくなって笑いだし。

背後の空を見上げる。

 

空気には、まだ甘い匂いが残っている。

その残滓を楽しむように。

そして、余韻を味わう様に。

 

そっと触れるだけのキスを交わして。

 

残った僅かな時間。

瞳を閉じて。

互いの鼓動だけに耳を澄ませて。

暖かい陽だまりの中、じっと寄り添った。

 

 

 

 

 

 

 

 

背景素材提供 RAINBOW 様