青空の休息

   

 三年になり、卒業が近付くと自然と自由な時間が増える。

 今日の午後もそうだった。

 三年生は午後の授業が無い。

 放課後のクラブには顔を出すつもりだったので、それまでの時間を持て余し、結局何処にも行く宛が無くて屋上に昇った。

 グランドを見下ろせば、一年生が体育の授業を受けている。

 自分もついこの間入学した気がするのに。気がつけばもう卒業が迫っている。

 早いものだ、と苦笑して空を見上げた。

 何処までも晴れきった青空は、雲一つなく清々しい。

 こんな青空の下で、こんな風に何をするでもなく、ただぼんやりとしている贅沢さに我知らず微笑んで、そのままその場に寝転んだ。

 瞳を閉じると、太陽が瞼を透かして赤く見える。

 眩しいけれど不快ではない。

 このまま放課後まで昼寝するのも悪くはないな。

 そう思うと、その考えは酷く魅力的に思えて、そのまま眠ってしまおうと決めた。

 

 

  うつらうつらし始めた時、ふ、と瞼を赤く透かしていた光が遮られた。太陽が曇ったのか、とも思ったけれど陰った瞬間今まで無かった人の気配が感じられて、俺は瞼を上げた。

 「なんだ、つまらん。

 こないだの仕返しに起こしてやろうと思ったのに」

 立ったまま、俺の顔を覗き込んで笑う男の足は、まさに俺の腹に降ろされようとしていた。

 白い髪が風に遊ばれて、たゆたう。

 青空を背景に笑う忌野を見上げながら、そういえばあまり青空の下でこの男を見たことがなかったな、と思った。

 そしてそれが残念だと思うくらい、この男は青空が映えた。

 「珍しいな、お前が尋ねてくるなんて」

 いつもは俺から出向くのに、というニュアンスを含めて伝えると、俺の横に腰かけながら忌野は「急に尋ねてこられる迷惑さが解ったか?」と零した。

 「いや、素直に嬉しい」

 急な来客は楽しいものだ。

 それがこんな風に贅沢な時間を過ごしている時、しかもそれが自分が凄く気に入っている人間となれば、尚更だ。

 大袈裟に溜め息をついて見せる忌野に「お前学校は?」と、当然の疑問を投げかけた。

 平日の昼間。普通の学生だったら、今は授業中のはずだ。

 「仕事の帰りだ。学校は自主休校。休みの届けは出してあるから気にするな」

 言われれば。忌野は私服だった。

 「ああ・・・・じゃあお疲れ様だな」

 「お前に労われる覚えはない」

 忌野は俺の言葉に憮然と応える。

 確かにそうだが、仕事が終わったのならば労いの言葉をかけるものだろう。俺の表情から思っていることを読んだのか、忌野は困ったように笑みを浮かべた。

 「で?どうした?

 何の用事もないのに尋ねてくるお前じゃないだろう?」

 俺とは違って、と暗喩を込めて言うと、忌野は鼻で笑ってから「そうだな」と同意を漏らした。

 そして俊巡するように沈黙した後、真っ青な空を仰いだ。

 「ちょっとな・・・・疲れたのかもしれん」

 意外な言葉に一瞬面食らう。

 忌野がそんなことを言い出すとは予想範囲外だった。

 忌野は面食らう俺を無視して、空を仰いだ。

 普通の人よりも虹彩の色が薄いので、余計に眩しく感じるのだろう。目を顰め、その痛みに微かにその面を歪ませる。

 そして、まだ何も言えないでいる俺を置いて、言葉を続けた。

 「日常から逃げ出したかったのかもしれないな・・・・」

 掌で顔を覆い、光を遮断してから忌野はぽつりと漏らした。

 忌野の言う日常が俺たちの生きている日常と一線を画しているのは理解しているつもりだ。

 そして、それから逃げ出したいと思っても仕方が無いだろうことも。

 しかしそれでも、この男が逃げ出したいと、そんな感情を吐露するのは想いもよらずで一瞬息を飲んだ。

 『逃避』だとか『甘受』だとか、そんな言葉や行動を一切自分に享受することを許さない孤高なる魂。それを軸にして必死で倒れまいとする崇高なる存在。

 それが、自他共に認めるこの男の姿だった。

 それがこんなにあけすけに、自分の逃げを口にしようとは。

  

 それに対して、卑下するような感覚はない。

  ただ、この何処までも弱音を吐くことを良としない男が、こんな風に感情を吐露するという事実に驚愕を覚えただけ。

 一体、何にそこまで追いつめられたのか?

 そう、追いつめられて追いつめられて追いつめられて、もうどうにも成らなくなった時くらいしか、この男がこんな風に吐露する事態は考えられなかった。

 

 「・・・・まぁ、ゆっくりしていけ」

 そんな男に俺が言える言葉は、こんな陳腐なものしかなかった。

 俺が軽々しく、「逃げてもいいんしゃないか?」などとは言えない。

 俺がこいつの中に踏み込んで、「護ってやろう」などとは言えない。

 何を感じ入ったのかは解らないが、疲弊し、逃亡したいと願った先に自分がいたことは事実で、俺としてはそれを享受するしかない。

 俺の存在する場所が、忌野にとって何らかの意味をもっているのならば、そこで気兼ね無く時間を過ごすことを許可することが俺に出来る、いや、俺に求められた唯一の回答な気がした。

  

  暫く、どちらとも口を開かず、その穏やかな空気にただ身体を預けていた。

 この男は詮索されることを何よりも嫌う。

 昔、自分を気に入っている理由に『お前は詮索しないから』と言われたことを、こんなとき思い出して苦々しくなる。

 実際は詮索しないわけではない。

 語ってくれる時期を待っているだけだ。

 知りたいと思う。

 知らなければ、何をしてやればいいのか、何を言ってやればいいのかもわからない。けれど、語る気がない人間に無理矢理口を開かせて、与えるのでは恩着せがましいと思う。

 だから俺は、相手が聞いて欲しいと願って口を開くまではこっちから胸中を探るような真似はしたくなかった。

 だが、相手がこの男となるとどうだろう?

 この、弱音も本音も一切を口にしようとしない男となれば。

 何も口にしない。

 そう、悲鳴すらも飲み込んで。

 その上でこの男は俺に会いに来た。

 そして、ぽつりと弱音を零した。

 こんな時、俺はどんな言葉をかけてやるべきなんだろう?

 この男は一体俺に何と言って欲しいのだろう?

 いや、言葉など待っていないのかも知れない。

 忌野雹と言う男は、誰かの手を求めたりする男ではないから。

 何処までも不器用で見栄っ張りで、強情で頑固な。

 そうやって自分の脆さや儚さを必死で隠している、そんな男。

 

 

 「ゆっくり・・・・休んでいけばいいさ」

 

 

 俺は、自分が言うことの叶う唯一の言葉を繰り返すしか出来なかった。万感の想いを込めて、ただ、繰り返すしか出来なかった。

 

 小一時間程、二人口を開くでもなく、何をするでもなくただ空を見上げて時間を過ごした。

 六時間目の終了を知らせるチャイムが響いて、忌野は予備動作もなく腰を上げた。こういった動きに、一切の隙を見せない。こんな些細な個所に、目を奪われる。

 「行くのか?」

 「ああ、そろそろな。悪い、風間。邪魔をした」

 「いや、楽しかった」

 「・・・・何をしたわけでもあるまい?」

 「何かをしなければ楽しめない、なんてのは不粋だろう?」

 「・・・・違いない」

 忌野は、くっく、と笑い、もう一度空を仰いだ。

 

 「いつまで私はこうやって立っていることを許されるのだろうな?」

 落とされた問いかけは、俺に対して零されたものではないのだろう。 

 誰に対して零したわけでもない言葉。

 だが、俺は敢てそれを拾うことにした。

 「・・・・いつまでだって。

 他の誰もがお前に陽の下で生きることを許さなくとも、お前自身と俺が許せば、何時だって今日みたいに過ごせるさ」

 仰いでいた視線を俺に戻して、忌野は「馬鹿だな」と呟きながら笑った。

 その笑顔が青い空に映えて、俺もつられて笑う。

 

 そう、何時だって望めば。

 こうやって空を眺める時間くらい作ってやるから。

 お前が逃げたいと思うなら、その避難場所になってやるから。

  

  「また、休みに来いよ」

 

  背を向けて去ろうとする忌野に声をかける。

 忌野は肩越しに振り返り、控えめに笑いながら「ああ」と言った。

 

 

 








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