ウサギの林檎
「何か食べたい物がある?」
スツールに座った子供に話しかけると、ラーはその小さな頭を傾げて。考える素振り。
「お腹すいてない?」
「ちょっとだけ…」
父親は何も言わずに、子供の上着を脱がせていた。
何時も、魔界で移動する時には眼深く被っているフードも。
開店前の店では誰が入ってくることも、覗かれることもないから外している。
だから、小首を傾げる度に。その金髪がさらさらと揺れる。
場所はバランが時々顔を出していたバー。此処の店主のシキとは、もう随分と長い付き合いになる。
こっちを詮索するわけでもなく、それでいて気が付かない訳でもない。そんな絶妙な距離感が気に入っていたのだが。
此処最近、子供が出来てからは徐々に関係が崩れつつあった。
どうやら意外なことに、シキは子供好きだったらしく、なんだかんだ言っては甲斐甲斐しく子供の面倒を見ようとする。
ラーも、母親と長年二人暮らしを続けていた所為か、大人の男よりかは大人の女の方が幾分か心を開きやすいようで。
今やスッカリ。
たまに長く帰れない時など、預かって貰うこともある程だ。
「そういえば、地上からリンゴが手に入ったの。剥いてあげようか?」
リンゴ。
リンゴだけではなく、どうあっても農作物は地上のものの方が遥かに美味い。
どうしても魔界の植物は、灰汁が強いというか、味が良くない。だからバランは食べ物は地上から取り寄せることにしている。
野菜や果物は特に。
地上で育ったラーには、魔界の食べ物はなかなか合わないし、下手をすれば腹を下しかねない。
だが。地上と魔界に流通があるわけではない。
なので、魔界では地上の食べ物など滅多に手に入るものではないのだが。
怪訝な顔をすると、シキはその表情を見て。苦笑しながら。
「別に変な所から手に入れたわけじゃないわよ」
そう言って、カウンターにリンゴをみっつ。並べる。
少し季節がずれるが、それでもそれは艶やかで、美味しそうなリンゴだった。
ラーはカウンターに乗り出しながらソレを眺めて、嬉しそうに笑顔を見せる。
その笑顔に、もう一度。
シキは「食べたい?」と聞く。
ラーは満面の笑みを浮かべて、一瞬頷きそうになったけれど。
まだ父親の了承を得ていないことを思い出して、くるりとバランを振り向いた。
「いいよ」
その無邪気な仕種に、つい微笑んでしまいながら応えれば。嬉しそうにシキに向き直って。
子供は可愛い笑顔を浮かべたまま。
「ウサギに剥いて」
おねだりをした。
ウサギに剥く、とはどうゆうことか。
意味が解らないできょとんと。
子供のキラキラした視線を受け止めながら当惑していると。
すっとカウンターに父親の手が伸びてきて、リンゴとナイフをさらっていった。
そして器用にシュルシュルと。慣れた手つきでリンゴを剥いて。
「皿」
言われて、慌てて出すと。そこに剥かれたリンゴの形に。
「ああ、成程ね」
人間って、面白いこと考えるのね。
素直に感心して。
そしてその慣れた手つきからして、それなりに剥いてやってることを想像して。
つい。笑ってしまう。
「なんだ?」
「いや、本当にいいパパだな、と思って」
「黙れ」
言いながらも、子供に向ける視線はとても優しい。
剥いたリンゴを置いた皿を子供の前に移動させて、そして嬉しそうに食べる様を眺めている。
「ねぇ。剥き方。教えてよ?」
「見てただろう?」
「何よ。ケチね。私もラーに剥いてあげたいわ」
「そんなに食わせたら、晩御飯が食えなくなる」
全く以て。親の発言。
ソレがまた面白くて。シキはとうとう笑いを堪え切れなくなって、噴出した。
一瞬、リンゴに集中していたラーが吃驚したように顔をあげるけれど、楽しそうに笑うシキを見て。一緒に笑った。
一人バランは憮然としながら、子供の皿からウサギリンゴを一個。摘まんで口に入れる。
その様がまた、どうにも可笑しくて。
だんだんツボに嵌って抜けられなくなりながら、シキは笑い続けた。
「だからね。それ以来。ラーに剥いてあげるリンゴはウサギさんなの」
そう言って、カウンターでラーの横に座る女に言えば。
当時のパパのように不機嫌に顔を歪めるラーが。更に不機嫌そうにそっぽを向く。
「人間って面白いこと考えるわね」
当時の私と同じ感想を口にして、女はフォークに刺したリンゴをまじまじと眺める。
「いいじゃない、ウサギリンゴ。可愛くて」
「あのなぁ…もう可愛いとかの年齢じゃねぇっつーの」
すっかり大きくなって。当時の予想を決して裏切ることなく、綺麗な青年に成長したラーは唇を尖らせて、不平を口にする。
「可愛いわよ?ほら」
女はラーの目の前を、ウサギが飛び跳ねているようにぴょこぴょことリンゴを動かして見せる。
その手を鬱陶しそうに払いのけて(それでもちゃんと相手が痛くないように。そしてリンゴが何処かに飛んで行ったりしないように気をつけて)盛大に溜息。
「でもパパも。今でもウサギに剥くでしょ?」
言えば。
瞬間。
不機嫌そうな顔が更に。
その態度が総て物語っている。
「糞。あの人も俺がいくつになったと思ってんだ…」
ぼやいた言葉がなんとも可愛らしくて。
私は当時と同じように、噴出し笑いながら。
きっと。
パパも。あの当時の可愛らしい「ウサギに剥いて」が忘れられないんだわ、と。親馬鹿弁護をしてみる。
一度インプットされたものは、なかなか消せないものなのよ。
だからきっと、これからもずっと。
「でも、嫌な思い出じゃないでしょ?」と笑いながら言えば。
不機嫌な顔に、ほんの少しだけ笑みを浮かべて。
そしてソレを誤魔化す様に、天井を仰ぐ。
「あーあ。やってらんねぇ」
零れた声は不満だけじゃなく、微かに滲むどうしようもない程の甘さを含んで。
私達に笑みを齎して、煙草の煙のように揺らいで消えた。
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