途切れた道




ぐらり、と視界が歪んだ気がした。

 

  

 

ああ。頭が痛い。

 

ぼんやりと、力の入らない身体を持て余しながら現状を把握する。

情けない。きっと貧血だろう。

女じゃあるまいし、と腹の中で毒づいて。

未だにぐるぐると回るのを止めない視界に見切りを付ける。

目を閉じたところで脳が回っているのだ。

その感覚からは逃れることは出来ない。

視界を遮ることで、より鮮明にその感覚を味合うはめになるのも解っていて。

回る天井を睨んで、治まるのを待つ。

 

 

ふ、と額に触れる手の感触に、眼球を動かして確認すれば。

養父の心配そうな顔があった。

 

「…大丈夫か?最近少し根を詰め過ぎていたようだな」

 

額にかかる前髪をよけながら、浮かぶ汗を冷たいタオルで拭ってくれる。

それはとても気持ちが良くて。

 

「体重も落ちてるだろう?」

 

額に触れていた手が、頬に触れる。

確かに以前に比べれば、幾分かこけた気がする頬は。いくら言葉で取り繕ったところで誤魔化しようがない。

 

だから曖昧に笑みを浮かべて。

 

しかし、そんな笑みに誤魔化される人でもないから。

大仰な溜息をひとつ吐かれて。

 

「…休みでもとって、のんびり二人で何処か行くか?」と。

 

それは思ってもなかった提案で。

小さい頃、留守番ばかりも息が詰まると我儘を言って連れて行ってもらった以来かもしれない。

仕事以外でこの人と何処か行くなど。

だから一瞬、ぽかん、と。

 

そんな俺を楽しそうな顔で眺めながら。

 

「何処か行きたい場所はあるか?」と聞かれて。ふ、と。

 

とても行きたい場所があったことを思い出す。

しかし、それが何処だったのかが思い出せない。

ずっと。ずっと行きたいと願って止まなかった場所があったはずなのだ。

それこそ焦がれる程に。

 

しかし、思考には薄いベールがかかっているように不鮮明で。

一向に思い出せそうもない。

 

養父は俺の頬を撫でながら、「決まったら言えばいいさ」と。

可笑しそうに、楽しそうに。

 

「今は、だから少し休め」

 

それに応える様に、視界はぐるりと回って。

俺は堪え切れずに目を閉じる。

 

閉じた瞳の向こうで、養父の声がする。

 

「お休み、ラー…」

 

 

 

§§§§§§§§§§§§§§§§§§

 

 

少し、眠っていたらしい。

いや、あのまま気を失ったのか。

どっちにしろ、情けない。

しかし、その分随分と楽にはなっていた。

もう、脳が揺れている感覚もない。

 

俺は額に乗っている養父の手に、腕を伸ばす。

 

「バラン様…もう、大丈夫ですから…」

 

言いながら、触れて。

 

 

呼吸が止まった。

 

息の仕方も忘れてしまったかのように。

全身が凍りつくように。

 

 

 

そして、意を決して。

そろり、と目を開ければ。

 

 

 

「………大丈夫?ラーハルト………」

 

そう。

今の主が、心配そうに俺の顔を覗きこんでいる。

 

少年の後ろにはヒュンケルの姿が。

その顔を見れば、俺が意識のない間の様がどんなだったか、おのずと想像が出来た。

 

放り捨てたい衝動を抑えて、なんとか少年の手をそっと放す。

 

大きさも。

感触も。

何一つ、あの人と同じ所などないのに。

なのに、それでも俺はこの手を。

この中にある『血』を求めて。

狂おしいまでの本能で、求めてしまうのか。

 

そして。

夢の中では決して思い出せなかった、どうしても行きたかった場所を思い出す。

 

それは紛れもなく。

あの人の側、だった。

 

どうしても。

どうしても。

行きたい場所。

そして、叶わない場所。

 

気付いて、どうしようもなくなって、泣きそうになって、泣く訳にはいかなくて。

 

きっと、俺は浅ましいまでにあの人の名前を呼び続けていただろう。

それは容易に想像できる。

そして、子供の手をあの人の物と勘違いして握り締めるのだ。

 

「ラーハルト…?」

 

名前を呼ばれ。

主を見れば。

不安げな顔でこっちを見遣る子供が。

 

どんな顔をすればいいかも解らない。

俺はただ、ぼんやりと子供を見返すしか出来ない。

 

 

「…大丈夫ですよ…ディーノ様…」

 

掠れる声で、それだけ言って。

俺は再び、視界を閉じた。

 

 

 

 

あの人のいない世界なんて、見たくない。

そんなもの、見たくない。

そんなもの、承認出来ない。

そんなもの。

 

しかし俺が容認しようがしまいが、そんなことお構いなしに世界は回る。

それこそ、残酷な程に。

それはあの人を失ってからの長い時間で痛感している。

誰に言われなくても、俺自身が痛いほどに。

 

抱える様に、自分の身体を抱きしめて。

俺は今現在の主の少年に背を向けた。

 

今は。

今暫くは、目を瞑っていたい。

 

 

そんな俺の態度を察してか、暫くして気配が動いてそっと扉が閉まる音が嫌に静かな部屋の中、響く。

 

背後にあるのは、鬱陶しくて仕方がないヒュンケルのものだけで。

そして、その気配が今まで主がいた場所を埋めるように移動して。

 

「…大丈夫か?」と。躊躇いがちに聞いてくる。

 

大丈夫なことなど、あるはずがない。

 

応えるのは億劫で。

俺はシーツを掴んで頭の上まで引っ張り上げた。

 

そんな俺に溜息を落として。

ヒュンケルは一度だけ、シーツの上から俺の頭をそっと撫でた。

 

 

その感触は、幼い主同様、決してあの人のモノと間違えようもないくらいに違うものだったけれど。

それでも、そこに存在する体温は。

 

痛ましいまでに、染みて、抉った。

 

 

 

いつまで。

いつまで俺はあの人を待ち続ける?

あの人がいないことを受け入れられないままでいる?

諦めきれないで。

認められないで。

 

これはまるで呪いのようだ。

 

しかし、その呪いが俺の身体をどれだけ蝕んで。病んで、止んで、痛んで、傷んだとしても。

それでもきっと。

 

この痛みから解放されることを。

望みはしないのだろう。

 

 

この呪いが毒となって、一刻も早く俺を終わらせてくれるように。

それだけを糧に。

俺はこの世界で、鼓動を刻み続けるのだ。

 

 

シーツで作り出した、薄暗い闇の中。

俺は強く瞳を閉じて、全てを遮断して。

 

 

声を殺して。

 

 

少しだけ……………

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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