囚われたのは自分か朝か



月はただ其処にあり続ける

 

 

闇に眼を凝らす。

凝らした所で勿論、何も見えない。

 

見えない。

見えない。

 

見るつもりもない。

 

ただぼんやりと光量のない部屋で、その隅を見る。

眺める。

 

そうやって、ただ陽が昇るのをじっと。

じっと待つ。

 

待つ。

待つ。

待ち続ける。

 

そうやって、眠れない夜がただ通り過ぎるのを。

世界を陽が覆い尽くしてしまうのを。

ただじっと。

 

「…………………」

 

その音は微かに。

しかし、物音と言えば自分の呼吸音くらいしか存在しないこの部屋では、聞き間違えようもなく。

そしてそれを裏付けるように続く、人の気配。

 

察して、視線を気配の源である窓へと動かす。

カーテンを閉めていない窓からは、月光がしんしんと静謐を讃えているけれど。

その窓がほんの少し、開く。

そして咎めるより早く、その微かに開いた隙間に指を差し込んで。次の瞬間には、窓は大きく開け放たれた。

 

細い月の頼りない光の中。

暗闇を身に纏って。

真夜中の闖入者の男は無遠慮に部屋に入り込んできた。

 

「……兄ちゃん、起きてるか?」

「……寝てたらどうする気だ?」

 

身体を起こす気力もない。

構う気力も。

正直、どうでも良かった。

 

しかし闖入者であるヒュンケルは、そんな俺の態度に慣れているのか気にする素振りもなく(まぁ他人の気持ちを気にするような奴は窓から不法侵入など試みたりしない)壁側に置いてある椅子を引き寄せて、ベッドサイドへと設置した。

そして当然のように、俺を見遣る。

 

未だに身体を横たえたままの俺は、諦めて声をかけることにする。

 

「……部屋……鍵、かけてただろう?ドア……」

「ああ、だから窓からにした」

「……鍵がかかってたら、入ってこなくないか?」

「なんで?」

「……鍵をかけると言うことは、誰とも会いたくないとか、独りになりたいとか、そうゆうことだろう?そうは思わんか?」

「思わん」

 

言い捨てやがった。

俺は不眠の齎す疲労感以上の疲労を覚えて、溜息を噛み殺した。

 

「なんだ?兄ちゃん。一人になりたかったのか?」

「……少なくともお前に会いたいとは思ってないな」

 

俺の返事に、乾いた笑いを返して。

 

「一人になりたい、て毎晩毎晩?」

 

ああ、本当に嫌な奴だ。

 

この男は俺が毎晩眠れないでいることも。

夜明けまで、ただまんじりとしていることも。

そしてそれを誰とも共有するつもりがないことも。

総て。

総て承知している。

その上で。

その上でこれか。

 

「なんでお前はそんなにも性格が悪いんだ?」

 

ベッドサイドから俺を見下ろす様に眺めている、世界一性格の悪い男を見返せば。

闇に浮かび上がる様な、銀の髪に縁取られたその面に。

月の光を連想させるような、静かな表情を浮かべていた。

 

光量のない部屋でぼんやりと浮かびあがるその姿が酷く不快で。俺は目を反らした。

 

「お前はまだ足りないのか?」

 

反らした視線を追うように、投げられた言葉の意味が一瞬解らずに。

反射的に視線を戻して、「何が?」と問えば。

その表情を歪めて、何処までも嫌そうな。不快で堪らないといった表情で。

「聞かずとも解ってるだろう?」と言い捨てる。

 

そして俺は思い至って。ただ。

ああ、と。

 

こうして。決して前向きとは言えない想いを持て余して。

答えを得ることも、誰かに救いを求めることもなく。

ただ独り、絶望にたゆたうように、浸る様にダラダラと。

喪ったモノ、人、時間、過去をただ只管に求め続けることに対して。

 

まだ。

まだ足りないのか?と。

 

投げかけられた疑問を吸収して、そして俺は途方に暮れる。

だから素直に「解らねぇよ」とだけ返して。

再び、ヒュンケルから目を反らせた。

 

決して生産性があるとは言えない、ただの逃避行に過ぎないこの行動を弁明しようとは思わない。

擁護しようとも思わない。

俺自身、この行動を誇りにしている筈もないし、囚われていることだって自覚している。

しかしそれでも。

指摘されたからと言ってなんとかなるようなものではないし、解放されるわけではない。

指摘されるまで自覚していないならまだしも、指摘されるまでもなく充分に俺は自覚している。

そして自覚していて尚、俺はここに立ち止まっているのだ。

歩き出すことを拒否しているのだ。

これは足りるとか、足りないとかの話ではなく。

自由意思など皆無な、それこそ本能に近い部分で行っている行動なのだろう。

 

だから俺は。

再び、闇の中に潜り込むように。目を閉じて、眼球の奥の奥に意識を集中させる。

 

しかし、世界一性格の悪い糞餓鬼はそれを許しはしなかった。

気配が。

近づいて来て、触れる。

肩に不快な。俺の物より幾分か高い体温。

 

「…なんだよ…?」

「ラーハルト。お前は此処にいるんだ」

 

そんなこと。

そんなこと、言われなくたって解っている。

此処ではない、違う場所に行きたいと焦がれながらも、此処から動くことが叶わないことは。

そんなことは。

それこそ、痛いほどに理解している。

 

目を開ければ、闇の中でも認識出来る、氷のような青の瞳が真っ直ぐに俺を見据えていて。

その目を覗きこみながら、ざわざわと騒ぐ不快感を俺は噛み殺す。

肩を抱く腕を振り払い、一言だけ「うざいよ」と返して。

 

きっとこの男は、俺が歩き出すまで何度だってこうやって、やってくるのだろう。

それは結局、この男自身が望む形なのだ。

俺はそれを望んでないというのに。

それは、この男が望んでいる、この男が良しとする結果に他ならないのに。

 

確かにずっと同じ場所で停滞していることは、あまり建設的なことではないし、良いこととも言えないだろう。

しかしそれでも。

これはこの男のエゴではないのか。

 

誰しもが正しいと思う道で救われるとは限らないではないか。

誰しもが間違っているという答えを選んだ所で、選んだ当人が満足していれば良いではないか。

それを選べば不幸になると解っている上で、選ぶこともあるだろう。

そっちに行けば危険だと知らされた上で向かうこともあるだろう。

罠だと解った上で嵌ることも。

一概に。自分の感覚が正しいなんて決めつけられない。

損得勘定や、常識、理性以外のどうしようもない部分で。選んでしまうことだって、きっとある。

傍から見れば、不幸に見えたり、大変だったり、辛かったりしても。それでも当人にとって後悔がないことはある。

 

これは母を見てきた俺には、理解を超えて、痛切に感じる事実で。

そして俺自身、今現在体現する形で。抱えている事象だ。

 

言いかえるならば、自分と一緒にいることで不幸にしてしまう可能性を抑え込んで、例の女との交際を認めたこの男の行動だって。

そしてそれを享受した女の行動だって。

きっと言いかえれば、俺のこれと大して変わらないのだろう。

何かを生み出すか、生み出さないかの違いだけで。

 

しかし流石にそれを指摘する程に、人が悪いわけではないので。俺は結局黙り込んだまま。

男に背を向けて、そのままいつものように丸まって。

シーツを抱え込むようにして。

目を閉じる。

 

背後から聞こえる溜息と、ぼそりと口の中で呟かれた呪詛の言葉は聞こえないふりをして。

暫く。ただ暗闇の中で。

奇妙な程に音もなく、そして気配を殺したまるで戦場のような空気に浸る。

 

しかし、その時間は男によって、急に破壊的に破られて。

俺は力づくで肩口を引っ張られ、無理矢理向かい合わされて。

驚いて、開いた視界の向こうに。

突き刺すような、それでいてまるで見離された子供のような瞳を見る。

 

「なぁ……頼むから……いい加減、ちゃんと生きろよ………」

 

俺の知り合いの中で、最も死にたがり屋の男は目の前のこいつなのだが。

そいつをもってして、ちゃんと生きろと言われるのは正直心外だったけれど。

 

あまりにも。

あまりにも、その瞳が必死で。

縋りつくようだったので。つい。

 

俺は闇の中で。

ほんの少しだけ。笑みを浮かべる。

 

手を伸ばせば、すぐ届く距離。

俺は月光を束ねたような、その銀の髪をやや乱暴に撫でて。

 

「そんな顔すんなよ、糞餓鬼」

 

 

 

 

 

時に。他人から親友だと言われることのあるこの糞餓鬼を。

俺は親友だと一度も思った事がない。

この男はそうは思っていないようだが、これは友情ではない。

 

俺達は何処か似た魂を抱えていて。

何処かで分岐を間違えて、他人になってしまった同一人物のように思うことがあって。

他人と呼ぶには酷く近く。

自分と呼ぶには違和感を覚え。

何処か不安定で、居心地が悪いながら。

それでも、欠けた部分を補うように、側にいれば落ち着くことも事実で。

 

痛みを覚えれば、それがまるで自分のことのように感じることすらある。

他人事と思えば割り切れることも、こと互いのことになると割り切れないこともある。

だから俺は積極的にこの男と関わろうとは思わない。

引きづられることが多々あるからだ。

しかし、この男は積極的に俺に関わろうとする。

それが酷く厄介で。

不快で。

そして、だからこそ。俺は此処にいるのかもしれない。

 

 

 

主の遺言。

糞餓鬼の願い。

新しい主の楔。

 

どれも俺にとっては呪いのようなもの。

どれも抗うことなんて出来やしない。

 

細く柔らかい髪を撫でながら、俺は諦観に近い感情を持て余して。

男の背後の月を見た。

 

 

細い月は何処までも青白く。静謐で。

静かな湖面のように、乱れひとつなく。

 

ただ、そこにあった。

 

 

 

「なぁ…」

 

ぼそりと零れた俺の声は。

糞餓鬼の耳元で、小さく弾けて。

糞餓鬼は身動きすることなく、それを受け止めて口の中だけで「なんだ?」と問い返す。

 

「……夜はいつ、明けるんだろうな……」

 

 

何処までも。

何処までも続く夜と。

同じように何処までも続く深淵のような、深い呪い。

 

囚われて動けない。

動かない。

自由の効かない身体と思考。

 

見下ろす様に、ただ照らす月と。

意味もなく、明るいだけの太陽と。

 

そんなものでは呪いは解けない。

そんなものでは動けない。

 

 

「いつかは必ず、明けるさ…」

「望んでないのに?」

「望まなくとも。夜明けなんて、そんなもんだろう?」

 

 

そうなのだろうか?

そうな気もする。

 

俺はだんだん考えるのが面倒くさくなって。

視界を閉じて、総てを遮断した。

 

 

 

 

まだ。

夜明けは遠い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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