そしてそれから数分。

家の前で、中に入ることに逡巡を繰り返していた。

 

もう陽は沈もうとしている。

 

中にあの子がいることは確信している。

勿論、思念の影響を受けないようにして入れば、女は無力なことは解っている。

しかしそれでも逡巡するのは。

 

影響はなくとも聞こえる女の声や、姿を見ることへの躊躇だ。

 

どうしても、あの子と似た部分を見付けてしまう。

そして、あの子の『本当の親』の部分に圧倒されてしまう。

 

私がもし、子供を遺して死んだとして、ここまでの思念を遺すことが出来るだろうか?

 

正直、それに自信はなかった。

そしてどうしても、そこに敗北心を抱いてしまう。

 

 

はぁ。

 

溜息は何度目だろう。

こんなことをしていても埒があかない。

 

自分の身体の表面に、残留思念が影響を及ぼさないように、微かに竜闘気を漲らせて。

私は先程より、幾分慎重に家に足を踏み入れた。

 

 

§§§§§§§§§§§§§§§

 

 

女は先程と同じ場所に、腕を組んだ姿勢で立っていた。

その双眸は敵意を隠すこともなく、燃える様に爛々と光を放っているように見えた。

 

私の周りでは、先程と同じように意思の奔流が荒れ狂っていたがそれが私に危害を与えることはない。

ただ、喧しいだけだ。

 

それに耳を塞いで、広くはない部屋を見渡しながら、昔ラーハルトが語った家の状況を思い出す。

 

『自分の部屋は半地下の、昔はワインセラーに使ってた場所だったんです』と。あの子は確かに言っていた。

ソコを改築して、窓を作ったと。

小さな窓から外を眺めて、いろんな話を母親と作ったと言っていた。

楽しそうに。

 

その部屋に続くだろうドアを見付けるのは、難しいことではなかった。

 

しかし、一歩。近づいた瞬間に。

 

女がその扉の前に移動した。

 

『それ以上動かないで。一歩でも近づいたら承知しないわ』

 

両手を広げ、何人足りともこの先に進むこと許さじ、と。

勿論残留思念の女の身体では障壁になどなりはしないのだが。

 

それでもその気迫に。

足が止まった。

 

「…危害を加えに来たわけではない」

 

言ったところで、思考に凝り固まっている残留思念に通じるはずはない。

そんなことは解っているけれど、それでも口にしていた。

私は今、お前の子供を守る立場にあるのだ、と。危害など加えようもない、と。

 

だがやはり。女がそこを動くことはない。

 

 

こうなれば、女を無視してその身体を突っ切るように通り抜け、扉を開けるしかない。

 

ここまでしっかりと像を結んでいる残留思念を貫くのは、正直気が引けるが。それでもこのまま平行線を辿ることが確実な、無駄な討論を続ける意味はない。

 

 

何度目かの溜息を落として。

私は一歩、踏み出した。

 

と同時に、衝撃に身体が打ち据えられた。

 

 

目を見開けば、目の前に女がいる。

そして、女は再びその細腕を振り上げた。

 

その瞬間、自分が引っ叩かれたのだ、と思い知る。

確かに物理的な衝撃を与えることが出来る残留思念は存在する。

焼け死んだ残留思念があまりに強くて、触れると火傷を負ってしまったり

ポルターガイストと呼ばれる症状を引き起こすことが出来る思念もある。

 

だが、そんなものは滅多に存在しない。

 

混乱する頭で、振り下ろされた腕を避けて、私は再び同じ感想を抱く。

 

全く、なんて女だ!!

 

生前に出会っていたとしたら、絶対にあの子を預かろうなんて思わなかっただろう。

鼻っ柱が強く、気位が高く、頑固で手に負えない。

 

避けられたことを意に返すことなく、今度は爪を立てて襲ってくる女をかわしながら。

私の我慢も頂点に達した。

 

 

精霊に近い竜の騎士の竜闘気には、残留思念をかき消す効果もある。

あの子の母親だから、と思って手加減していたが。

流石にここまでされては我慢がならない。

吹き飛ばし、その思念が跡形もなく掻き消えたとしても知るか。

 

 

 

そして、私は自分の身体に微弱に纏っていた竜闘気を解放した。

 

 

§§§§§§§§§§§§§§§

 

 

存在を掻き消してやる位の気持ちだったが、最終的に思い留まったのは。

やはり、あの子と同じ皇帝緑の瞳が真っ直ぐに私を見たからに他ならないだろう。

 

それでもかなりの部分を吹き飛ばした。

時間が経過すればまた残留思念が籠ってくるか、または薄まるかは解らないが、それでも今すぐに私に物理的な攻撃を加えるような真似は出来ないだろう。

 

今度は躊躇することなく、女の身体を貫いて扉に腕を伸ばす。

 

女の表情が恐慌に囚われる様に変化するが、それも無視した。

 

構ってなど、いられない。

 

悲鳴も、怒声も、罵詈雑言も無視をして。

縋るように腕にまとわりつく女の腕も、全て無視をして。

私は女が守り通すと決めたその最後の扉を、開く。

 

 

 

 

そして、私は。

そこでただ。立ちつくした。

 

 

 

 

 

目の前には、黴臭いシーツに包まって眠る子供が。

そして、その子供を守るように、抱える様に寄り添う女の姿が。

 

女の讃える双眸には、先程のような怒りは微塵もない。

ただ、愛しい我が子の眠りを妨げないように。

我が子が見ている夢が幸せなものであるように。

何処までも尊く、何処までも慈しみをもって。

それは一種の宗教画のようにも見えた。

その姿は、神々しい温かみに満ちていた。

 

残留思念には明確な数はない。

だから一人の思念がこんな風にいろんな場所に残ることがある。

それは、まるで何人も同じ人間が存在するように。

 

子供は安心しきった顔で、穏やかに寝息を立てている。

その寝顔を見る母親は、本当に満ち足りた顔をしていた。

今、それ以上の何も望まないというような。そんな何処までも幸せそうな顔をしていた。

 

 

瞬間。

今まで襲っていた罵詈雑言が止んで、代わりに酷く優しい音が響く。

 

何十奏のも重なった音は、最初何を言っているのか解らなかったが。

そのうち、音は解けて意味を成す。

 

 

 

それは何重にも重なった『愛している』だった。

 

 

 

子供が眠るこの部屋を中心に、この家を造る全ての素材、壁や家具、それこそ空気までもが唄うように。

何度も何度も『愛している』を繰り返す。

 

『愛している』と。

『愛している』と。

 

その音は水面に波紋を築くように広がってはぶつかって、更に広がりを増やしていく。

 

何処までも美しい音だった。

唄うようでもあり、叫ぶようでもあり、囁くようでもある。

それでも不協和音にはならない。

それは何処までも澄んでいる。

 

自然と、息が漏れた。

 

そして私は背後を振り返る。

 

 

背後には女が、私の肩越しに子供の寝顔を見て。

にっこりと。

 

あの子の浮かべる、蕩けそうな笑みと良く似た笑顔を浮かべていた。

 

そしてその形の良い唇がゆっくりと。

『愛してるわ』と囁いた。

 

 

§§§§§§§§§§§§§§§

 

 

暫く、その美しい音の中で立ちつくしたままだった。

子供を起こす気も起きなかった。

正直、完全に敗北だ。

こんなものに勝てるはずもない。

 

 

「…全く…本当になんて女だ…」

 

苦笑するしかない。

絶対に。何があっても生前には会いたくない女だ。

死後ですら、御免被りたい。

 

女は可笑しそうに笑いながら、肩を竦めた。

 

『母親はみんなそうよ。貴方の大事な『その人』だってね』

 

言われ、会話が成り立ったことにも驚く気力はなく。

私は、今は亡き愛した彼女を思い出して、「それはぞっとしないな」と零した。

その答えに、女は楽しそうに笑い声をあげる。

そしてほんの少し、間を空けて。

 

『ねぇ、私の天使ちゃんは今幸せなのかしら?』と問いた。

 

私は女の視線を追って、眠る子供を見る。

 

「少なくとも『今』は世界中の誰よりも幸せだろうさ」

 

死んでも尚。ここまで自分を愛し続ける女に抱かれて。

まるで世界中の全てに祝福されるかのような『愛している』という祈りに包まれて。

幸せでない筈など、ないだろう。

 

それを証明するように、子供の寝顔は何処までも穏やかで。

見ているこっちまで、幸せになる。

 

『貴方は私の可愛い天使を愛してあげられる?』

 

その声には、否という答えを返すことを許可していない響きがある。

言うなれば、この場で約束、誓約しろと押し付けるかのような声だ。

 

「…愛してるさ…」

 

負けを認める様に手をあげて、そこに「お前のように、は無理だがな」と付け足した。

女はにっこりと。

まるで少女のような笑みを浮かべて。

 

『そんなこと解ってるわ』と。自信たっぷりに。

 

ああ、本当に。

 

「なんて女だ、お前って奴は」

 

ついに破顔して、笑ってしまう。

 

本当に。完敗だ。

竜の騎士が負けることなどあり得ないのに。

 

女は世界最強の生き物に勝利したという前代未聞な事実に気付きもせずに、ただ、子供を眺めている。

きっと、女には世界の危機も、興味などないのだろう。

ただ、この子が幸せに健やかに過ごすことが出来ること以外、それ以外に何の興味もない。

 

「約束するよ…」

 

その言葉は自然に漏れていた。

女がきょとんとした顔で振り返る。

そんな仕種も、子供とよく似ていた。

 

「幸せにする」

 

告げれば。

女は徐々に笑みを深く鮮やかに変化させて。

 

『もし不幸にしたら、どんな手段を使ってでも殺してやるから』と酷く物騒なことを言って、笑った。

 

 

§§§§§§§§§§§§§§§

 

 

子供の寝顔を暫く眺めていると、瞼が痙攣するように戦慄いた。

そして、寝起き独特のとろん、とした瞳がその隙間から覗く。

 

「……あれ……バラン様…?」

 

掠れた声。舌足らずな口調。

何度か目を擦り、そして自分が何処にいるのかを確認するように何度か部屋を見渡す。

 

「ラー…外を見て御覧」

「外?」

 

言えば、疑うことなく視線をその小さな窓に向けて。

暫く沈黙した後に。

色々思い出してきたのか「あっ!」と短い悲鳴のような声をあげる。

 

窓の外はもうすっかり陽が沈んで、真っ暗になっていた。

 

勿論約束は、陽が沈むまでには帰る、だ。

 

途端にしゅん、と下を向く耳と。

おろおろと慌てるその仕種に怒る気力も萎えてくる。

しかし躾は躾、約束を破ったことには変わらないので心を鬼にしてその頭を小突いた。

 

瞬間にラーの背後に身守るようにして立っている女の形相が、険悪なものに変わるが。

仕方がないだろう、と口の中で呟けば。

不機嫌そうな顔で睨まれた。

 

ラーは小突かれた部分を撫で擦りながら、困ったような顔をして。

 

「やっぱり育った家だからですかね…?気持ち良くて…寝ちゃいました…」

 

そりゃあそうだろう。

世界の何処よりも、きっとお前は此処が落ち着くだろうさ。

 

延々と鳴り響く、子供に向けて放たれる母親の『愛』は未だに止む気配がない。

これと同じような環境は、きっと母親の胎内くらいだろう。

 

子供にとってこれ以上安心出来る場所なんて、あるはずがない。

 

「ごめんなさい」

 

はっきりと。視線を反らさずに真っ直ぐ見て、謝る姿勢は母親の躾か。

私は小突いた頭を今度は撫でて、「無事ならいいさ」と本音を漏らした。

 

起きるのに手を貸して、そのまま手を繋いで部屋を出る。

ラーの鞄は出かける時よりも重くなったようだ。

きっと何かしら想い出の品でも持って帰るのだろう。

それを見咎めることはしない。

 

『愛してるわ、天使ちゃん』

 

部屋を出る直前に、はっきりと女の声がした。

手を繋いでいたラーの足が一瞬止まる。

見れば、振り返り、子供は部屋を順に見渡す。

もしかすれば、母親の声が聞こえたのかもしれない。

 

繋いだ手に、ほんの少し力が籠る。

 

それはほんの気まぐれだった。

 

私は部屋を見遣るラーに問う。

 

「ラー…母親のこと…好きだったか?」

 

何をいきなり問うのか、とこっちを見たラーの顔は一瞬訝しげになったが。

視線を部屋に戻して、ラーは少しだけ寂しそうな顔をした後。

いつもの、蕩けそうな満面の笑顔を浮かべて。

 

「ずっと、大好きです」とはっきり言った。

 

見えていないはずなのに、不思議なことにラーの視線の先には女が立っていた。

女は言葉を受け止めたように、戦慄いて。

 

面白くもないが、認めざるを得ないような、美しい笑顔を見せた。

 

 

 

 

 

女の残留思念はこれからもずっと、薄くなるまで、この場所で子供への愛を叫び続けるのだろう。

そして踏みこんできた侵入者を容赦なく攻撃するのだろう。

きっと。

ずっと。

 

それはどれ程の想いなのだろう。

それはどれ程深い愛情なのだろう。

 

想像しようにも、想像出来ない。

 

 

最後に一度振り返れば、最初と同じように女は扉の隙間からこっちをじっと見ていた。

しかし最初のように、その瞳には敵意はない。

ただ、子供に向けて微笑みかけている。

ずっと。

じっと。

 

この眼差しはきっと、残留思念が薄れて消えることがあっても、無くなることはないだろう。

あの素晴らしい愛の歌も、きっとこの子の中で永遠に鳴り響くのだろう。

 

聴くことが出来なくても。

きっと、この子の中には鳴り響いている。

 

それはまさに祈りのような、そんな唄だ。

 

 

§§§§§§§§§§§§§§§

 

 

「なぁ、ラー」

「なんですか?」

 

手を繋ぐことが嬉しいのか、じゃれつくように歩く子供に話しかければ満面の笑顔付きで返事を返す。

その笑顔に対して、純粋に愛しいと思った。

あれ程まで愛することは出来ないかもしれない。

しかし、それでも私はこの子を慈しむだろう。

 

それだけは、間違いない。

 

それを確信した上で。

私は認めざるを得ない事象を。

 

 

「私はお前の母親が苦手だよ」

 

 

竜の騎士をこてんぱんにやっつけた女。

私が自分の負けを認めるなんて。

こんなにも完膚なきまでに叩きのめされたと感じるなんて。

 

あんなの相手にしてられない。

 

零せば、母親譲りの仕種できょとん、と。

 

「何言ってんですか。会ったこともないのに」と。

呆れたように、笑った。

 

 








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