会議が終わって自室である学長室に戻ると、ソファに寝そべって雹が寝ていた。
ジャスティス学園内で最も厳重に守られているこの部屋で、時々こうしてこの子は仮眠を取っている。
今となっては、私よりも余っ程危険な立場に置かれているこの子の安心出来る場所など限られている。ここで仮眠が出来るのならば、それを拒んで取り上げる気はなかった。
机の上には、会議前には乱雑に置かれていた書類がきちんと揃えられている。山ごとにメモが貼られ、片付けなければならない順に整理されているようだ。
メモに書かれた几帳面な雹の字を眺め、苦笑する。
願ってもなかったが、随分と優秀な秘書が出来たものだ。
そして完全に寝入ってしまっている雹の寝顔を眺めた。
こうして見ると、まだまだ幼さが残る。
そう、この子はまだ伐と同い年なのだ。
つい、忘れてしまいそうになる現実を思い出して、心が痛んだ。
いや、敢て忘れようとしているのかもしれない。
この、幼い子供に全てを背負わせようとする、そんな現実から目を反らすために。
この子の犠牲を見て見ぬ振りをする罪悪感から逃れるために。
一つ、溜め息を吐いて、常備してある仮眠用の毛布に手を伸ばした。
かけてやるために近付いた瞬間、固く閉じていた瞳が開いた。
「・・・・おはよう」
「・・・・おはよう御座います・・・・」
乾燥して掠れた声でそれだけ言うと、雹は体を起こそうとする。それを手で制し、「まだ寝ていて構わない」と告げながら毛布を手渡すと、雹はまだまだ寝足りなかったのか素直に受け取って、体に巻きつけた。
学業を疎かにする子ではなかったから、成績が下がることはなかったけれど、最近授業を欠席することが多くなった。
それだけ、忌野本家での仕事が増えているということだ。
学業だけではない疲れの色をその顔に見て、自然と気遣う言葉が漏れた。
その仕事を捨てた私が気遣える立場にないことは重々承知しているけれど、それでも、言葉は漏れた。
「疲れている様だが、大丈夫か?」
「大丈夫ですよ。叔父上の方こそ、最近お疲れなのでは?」
逆に気遣わしげに返されて、苦笑した。
もし、あの時自分が忌野の家を捨てずにいたら。
この子は今ごろ、伐や恭介君達と同じように、普通の高校生として生きていたのだ。
命の遣取りや、ましてや暗殺業などというものに手を染めずに生きていけたのだ。
そう思うと、いたたまれなくなる。
本当にいたたまれなくなる。
そして、その道をこの子が、例え他に選択肢が無かったとしても、自ら選んで進んでしまった現実にいたたまれなくなる。
願うなら、あと数年。
せめて、成人するまで待つことが出来たなら。
この多感で傷付きやすい思春期の時代を、こんな血生臭い大人社会に埋もれさせることもなかったのに。
「今更言っても詮無いことだが・・・・雹は舞台に立つのが早すぎたな」
早めたのも、立たせたのも、それはこの子を取り巻く私達大人の所為で、この子が望んだ訳ではないのだが、それでも、それでも思ってしまう。
願ってしまう。
雹は重い瞼をその瞬間ぱっちり開いて、その兎を連想させる瞳でじっと私を見つめた。
そしてにっこりと笑って見せると「本当に、今更ですね」と呟いた。
そこに私を責める音はない。
この子はどんな状況になっても、誰を責める事もなかった。
恨み言の一つ吐くことなく、ただその現実を享受する。
拒むことも、逃げることも、戦うことも、守ることもなく、ただその現実を飲み下すのだ。
それがますます痛々しくて「・・・・私のことを恨んでくれて構わないよ」と、聞こえのいい言葉を吐かせた。
恨んだところで、私が再び忌野に戻ることはない。
この子に押しつけた様々なものを再び背負うことはない。
助けるつもりもないのに、こんな言葉はただの偽善だ。
わかっているのに、それでも、この子が許可されたことで愚痴のひとつでも零してくれるなら、それで少しでも気が晴れるなら構わなかった。
雹は私をじっと見ている。
そして視線を外すと、その綺麗な面に自嘲の色を浮かべて笑みを。
「雹?」
「・・・・別に、私に恨まれるようなことをしてないでしょう?」
返事はすることが出来なかった。
否定も、肯定も出来ない。
「それとも、何か罪悪感に捕らわれてしまうような行動を私が取りましたか?」
「・・・・いや」
絶句する。
そうだ、この子の支点は自分なのだ。
そのことを思い出し、私は鈍い疲労に捕らわれる。
他人を責めるでなく、どんな状況でも自分を責める。この子特有の精神構造。
どんな目にあっても、どんなに裏切られても、利用されても、殺されかけても、その否を自分に見いだそうとする。
だから、仕方が無いのだと自分を納得させるために。ただ只管に自分を卑下する、この子の痛々しいまでの思考回路。
「雹・・・・」
「貴方は何も悪くない。私が保証しますよ」
ふふ、と笑って瞳を閉じる雹の顔に、悔恨の色はない。
聡明で、繊細で、不憫なこの子のために、私はただ、「お前も何も悪くないよ」とだけ返した。
それだけは解って欲しいと心を込めて。
祈るように、それだけを告げた。
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