奇跡の条件



霞む視界はどこまでも白々しく。
傷んだ身体は何処までも現実に固着していて。
その延長線上にあるはずの精神は、全ての思考を放棄して。
何も見たくなどない。

何も。

こんなに。
こんなに怪我を負ったのは何時以来だろう?
それこそ、瞑竜との戦い以来かもしれない。
放棄した思考は、とりとめなく関係のない記憶を浮上させては 見なければならない、対峙しなければならない現実からなんとか目を反らせようとしている。
それは原始的な生存本能と幹を同じくするもので。
現実を直視すれば壊れかねない私の弱さを自覚させるだけの自嘲を含んでいた。 

しかし思えば。
自分と同じ。そう、本来存在しないはずの、もう一人の竜の騎士とやりあったのだ。
これくらいの傷を負うのも当たり前なのかもしれない。
 

ああ。

惰性で動いていた足が止まりそうになる。
現実が残った力も気力も奪おうとする。

 

取り戻せるはずだった。
やっと見つけたのだ。


ダイ。



生き別れの我が子。
この手に抱けると思った。信じていた。
再び、この腕に抱くことができると。
信じて疑わなかった。


だが結局。

  

自分の傷だらけの腕には、何もない。

 

結局、取り戻すことは出来なかった。

何一つ取り戻すことは出来なかった。

何一つ。

  

苛む現実を振り払って、再び足に力を込める。
止まってなどいられない。

 

進まなければならない。
焦燥感にも似た、緊迫した強迫観念に駆られて私はただ、足を進める。

 

 進まなければ。


それがどれだけ、忌むべき現実を連れ立っていようとも。
目を背けることは、それだけは出来ない。
してはならない。

  

  



開けた視界に映ったその場所は、たった数時間で様相を随分と荒涼としたものへと変貌させていた。
血の臭い。感覚を刺激するあの独特な。
抉れた地面。焼けた空気。触れそうなほど濃厚な殺気。

 

そして、転がる骸。

  

その、かつての。
いや、つい先程まで部下だった者たちを一人ずつ確認して。

 

ガルダンディ。
ボラホーン。

 


無意識に。
私は瞳を閉じた。


見なければならないが。
見てはならないと。本能が叫んでいる。

 

しかし、見るよりも前に。


震えた声音が。

 

      「 …ラーハルト… 」

 

                 酷く脆弱に零れ落ちた。

 

その声に応える者はなく、返ってくるのはただ、静寂のみ。

そう、痛いほどの。

気が狂わんばかりの、静寂のみ。

 

吐き気すら込み上げる。

全ての感覚が、拒否をしている。


 

 

ラーハルト。
出会ったのは、12年前。10歳になったばかりの幼い子供だった。
それ以来ずっと。私の子供として、側に居た。

それこそ、誰よりも長い時間 一緒に過ごした。


私のもう一人の息子。

もう一人の。


かけがえのない。


        私の息子。

 

知らず、噛み締めた口に血の味が広がる。
その苦い味に数倍苦い現実が感化されて。

 


 とうとう。


 瞼を開いた。

 

 

傷だらけで横たわる、最愛の息子は。
かつて失った妻の姿と恐ろしく被さって。

 


 意識が歪む。

 

 

失ってしまった。

失ってしまった。


またしても。 

  

失ってしまった。

失ってしまった。

 

「ラーハルト…」

 


無駄だと知っていながらも、何度となく名前を呼ぶ。

 

何度も。
何度も。


そしてその、返ってこない沈黙に押し潰されてしまいそうになり
崩れ落ちるようにその場にしゃがみ込んだ。

 

 

いうなれば、これは『私闘』
そこには世界の危機も、世界のバランスも、存在しない。
本来ならば、竜の騎士が行う闘いではない。
勿論、竜の騎士に仕える竜騎衆が参戦する闘いでもない。

 そう、これは私の個人的な『私闘』なのだ。

部下たちが死ぬ必要など、一切ない闘い。
この子が死ななければならない理由など、一切存在しない闘い。



本来、私闘など許されない竜の騎士が私情に走った。
これがその代償なのだろうか?
失わなければならなかった?

 
本当に?

神よ、これは罰なのか?
 
竜の騎士でありながら、人間を愛した私への。
竜の騎士でありながら、人間に刃を向けた私への。

 

 

そう、これは全て。


 私の……

私の責任以外の何物でもない。
私の罪以外の何物でもない。



       重すぎる、代償。

 



手を伸ばして、子供に触れる。
指先から感じる冷たさは、そこにあるはずの『生』がもう既に抜け落ちてしまっていることを、如実に、痛いほど明確に訴えて。
その誤魔化しようもない現実に、それでも私は足掻くように名前を。



 ただ名前を。


 

 「 …ラー… 」

 

 

 

血を与えた子供に一切の変化はなく、痛々しい沈黙は永遠とも思えるほどに長く長く。
ディーノの友人の子は、すぐに生き返ったというのに。

 

 現実は変わらない。
 奇跡は起こらない。
 代償は支払われてしまった。

  

私の中に穿たれた、ぽっかりとした暗黒。
喪失感と焦燥感と、寂寥感と…ただ只管の悠久の孤独。

 

『悪に奇跡はおこらない』

 

白濁する思考回路に割り込む嘲笑に満ちた通説に。知らず、ギリと奥歯を噛み締める。
何を基準として『悪』というのか。
 
人間に牙を剥くものを『悪』というのなら。
それならば、人は『完善』だとでもいうのか。

 

私に師事したことで、この子が『悪』と呼ばれるなら。
それ故に、奇跡が起こらないというならば。

 

 

 

握りしめた拳は力を込めすぎて、白く 白く。
喰いこんだ爪は鈍痛を伴って。

 

私は自分の中の暗黒の淵で、一人。ただ独り。

 


神よ。
これはあまりに残酷な仕打ちなのではないか?

 

 

 

 





棺を閉じる。
その最期の瞬間に、もう一度だけ。その頬に触れて。
開くことのない、瞼にキスをする。
あの、鮮やかな新緑を連想させる翡翠の瞳を脳裏に描いて。

もう、決して取り戻すことの叶わない、あの笑顔を思い描いて。

 

 

「ラーハルト…行ってくる」

 

誰も応えることのない言葉。
ソレだけ伝えて。

失ったものを噛み締めて。

 

そして棺は閉められた。

 



残酷な遺言を残して。

 

 

 

神よ。


あの子がもし生き返るのならば、私の意思を無視は出来ない。
あの子は、私のもう一人の息子の為に戦うだろう。

人間に仇成すことが『悪』ならば、人間を守ることは『正義』なのだろう?


それならば…

 

 

 

『悪に奇跡は起こらない』

 

 

ソレならば……

 

 

 


結果、ソレがドレだけ残酷なことであろうとも。
ソレがあの子をドレだけ傷つけようとも。
その結果、私を恨むことになろうとも。


それでも。

 

 

 

これは私の賭け。

いや、ただの悪足掻きか?

 

 

失ったものは戻らない。
失ったものは戻らない。



それでも。


それでも手を伸ばして止まないのだ。

 

そう、それでも…

 

 


そして唯一遺された者を、これ以上 失わない為に。

 

私は竜の騎士として ───────────── 闘う。

 







背景素材提供 Mako's 様