糸の上を歩くような




一本の糸が、ぴんと張詰めて。
何処に続いているのか分からないけれど、僕はただその上を。
足元は決して見てはならない。
細い糸は足の裏に食い込んで、赤く染まっていくけれど。痛みに顔を顰めながらも、僕はただ進まなければならない。
この不安定極まりない道は、それこそ何処までも果てなく。

悪夢以外の何物でもない。

それでもこれ以外の道など己には存在していないから。
僕はこの糸の上を。ただ、切れないことだけを望みながら進み続ける。

 

 

張詰めていた糸が弛んで、いつの間にか僕は地面の上に立っていた。
見上げれば、遥か頭上に僕が今まで歩いてきた糸よりもまだ細い糸が張っていて。
その上を、確固とした足取りで振り返ることも、見降ろすこともせずに、ただ前だけ向いて歩いている兄の姿が。

 

ああ、僕は脱落してしまったのだ。

 

そう、ぼんやりと思いながら。
だけどそのしっかりと安定した地面はどこまでも穏やかで安らかで。
休むことも、寝転ぶことも容易くて。

 

 

ああ、堕落していく。

 

 

「兄さん」

 

遥か頭上の兄に、僕は呼びかけるけれど。
兄は決して振り返らず、ただ真っ直ぐに進み続ける。

 

後ろを振り返れば、弛んだ糸が風に嬲られてぶらぶらと。まるで今の僕のように心許ない無様な様を晒している。

兄の背中を追っていた。

ずっとずっと、離れないように。

だけど今、その背中は随分と遠くに行ってしまって僕はただ独り。

誰も守ってくれる者などいない、この馬鹿馬鹿しいほどに安穏とした穏やかな世界に独り。

 

裂けていたはずの足の裏から、痛みが引いていく。
そのうち傷も塞がって、何事もなかったように張りつめた糸の上を歩いていたことなんて忘れてしまうのだろう。


僕は愚かで、何処までも馬鹿だからきっと。全て忘れてしまうのだろう。

 

だから。

 

塞がりつつある足の裏に僕はナイフで傷をつける。

 

決して忘れないように。

僕が兄と共にあったことを。兄の痛みを。

僕が決して忘れることなどないように。

痛みを。

ただ不器用なまでに痛みを。

こうしておけば、僕の歩いた後にはどす黒い赤の血跡がつくだろう。

どこまでも、どこまでも。

僕の後ろをついて回るだろう。

 

そう。

あの、切れそうな糸の上と同じように。

 

 

あの日、僕の糸を切ったのは兄だったのか、僕自身だったのか。
あの張りつめた糸の上から降りようと思ったのは僕の意思か、兄の意思か。

 

少なくとも、僕は今何処までも無意味な程の安穏に満ちた世界に居て。
兄は僕の分の糸をもその身体に巻きつけて、ただ只管歩き続けている。

 

こんなこと、望んだわけじゃなかったんだ。

僕が望んだのは、兄さんと僕、二人の幸せだったんだ。

兄さんと離れることなんて、望んでなかったんだ。

僕たちはただ、ささやかなごく普通の幸せを。穏やかな日々を。

なんでもない日常を、過ごしたかっただけなんだ。

 

 

なんて、こんなことを言ったところでもう。誰にも届かない。いや、最初から誰も僕たちの願いになんて興味を持ってなかったのだろう?

分かってる。充分過ぎるほど。

僕だって、あの糸の上をずっとずっと歩いていたのだから。

 

 

自分の歩いていた糸の、途切れた切っ先を指に巻きつけて。
僕はその先に居るはずの兄を想って、そっとそれに口付ける。




 

僕の血が染み付いたその糸は、苦い苦い、味がした。

 

 

 




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