糸の上を歩くような
一本の糸が、ぴんと張詰めて。 張詰めていた糸が弛んで、いつの間にか僕は地面の上に立っていた。 ああ、僕は脱落してしまったのだ。 そう、ぼんやりと思いながら。 ああ、堕落していく。 「兄さん」 遥か頭上の兄に、僕は呼びかけるけれど。 後ろを振り返れば、弛んだ糸が風に嬲られてぶらぶらと。まるで今の僕のように心許ない無様な様を晒している。 ずっとずっと、離れないように。 だけど今、その背中は随分と遠くに行ってしまって僕はただ独り。 誰も守ってくれる者などいない、この馬鹿馬鹿しいほどに安穏とした穏やかな世界に独り。 裂けていたはずの足の裏から、痛みが引いていく。 僕は愚かで、何処までも馬鹿だからきっと。全て忘れてしまうのだろう。 だから。 塞がりつつある足の裏に僕はナイフで傷をつける。 決して忘れないように。 僕が兄と共にあったことを。兄の痛みを。 僕が決して忘れることなどないように。 痛みを。 ただ不器用なまでに痛みを。 こうしておけば、僕の歩いた後にはどす黒い赤の血跡がつくだろう。 どこまでも、どこまでも。 僕の後ろをついて回るだろう。 そう。 あの、切れそうな糸の上と同じように。 あの日、僕の糸を切ったのは兄だったのか、僕自身だったのか。 少なくとも、僕は今何処までも無意味な程の安穏に満ちた世界に居て。 こんなこと、望んだわけじゃなかったんだ。 僕が望んだのは、兄さんと僕、二人の幸せだったんだ。 兄さんと離れることなんて、望んでなかったんだ。 僕たちはただ、ささやかなごく普通の幸せを。穏やかな日々を。 なんでもない日常を、過ごしたかっただけなんだ。 なんて、こんなことを言ったところでもう。誰にも届かない。いや、最初から誰も僕たちの願いになんて興味を持ってなかったのだろう? 分かってる。充分過ぎるほど。 僕だって、あの糸の上をずっとずっと歩いていたのだから。 自分の歩いていた糸の、途切れた切っ先を指に巻きつけて。 僕の血が染み付いたその糸は、苦い苦い、味がした。
|
背景素材提供 NEO HIMEISM様