波椿



爪先は水面を波立たせ、小さな波紋を広げる。
その様をぼんやりと眺め、何度も、何度も繰り返す。
波紋同士がぶつかって、歪んで相殺する。 それはあたかも人間社会の営みのようで、失笑を抱いた。

 「冷えますよ」

 背後からかけられた声に、幾十にも円を生み出していた脚をあげて、渡されたタオルで拭いた。
それでも拭き切れなかった水滴がぽたり、ぽたり、と板間に落ちる。

 そのこんもりとした、透明な滴を指で壊して、先程の波紋をぶつけ合う遊びと同じような気分になり、濡れたタオルをどうすることも出来ずに手に持ったまま、私は少し途方に暮れる。

 こんな風に。
 なんでもない日常に。
 囚われて動けなくなる。。

 私の手からタオルをそっと奪い、燦斬は拭い残した水滴を足から拭き取る。
 その際、私が怯えない程度に。触れるか触れないか程の微かな接触をして。

 「すっかり、冷えてしまいましたね」と、見慣れた苦笑を浮かべて零した。

 言われて触れれば、確かに酷く冷たくなってしまっていた。

 「火鉢、持ってきますね」

 動作を目で追いながら、緩慢にしか働かない思考で意味を考えて。答が出る前に部屋の中央から、火鉢が側に運ばれてくる。
 じんわり、と芯を温めるような火鉢の感触は痺れを伴って身体に蓄積されて、そのうち火照る。
 思考は熱に浮かされてますます緩慢になるだろう。
 溜息をつくのすら。

 顔をあげると、床の間の一輪挿しが目に入った。
 紅い椿が鮮やかに咲き誇っている。
 枝華なのでまだ保つけれども、そのうちポトリ、と首を落とすだろう華は今が盛と瑞々しい。
しかし決して遠くない未来、華は落ちるのだ。 

 「椿は…見たくない」

 好きな華だったのに。
 しかし燦斬は問うことも、咎めることもなく、黙ってソレを処分してくれる。

 いつから。

 終わりを拒否するようになったのだろう?
 いつも終わりを願っていたくせに。今もソレを願っているはずなのに。

 ふ、と触れる指。

 椿を処分した燦斬が戻ってきて、目の前にいた。
 火鉢で温められた手には、ひんやりと感じる燦斬の体温。

 「…生きてますよ。私も、貴方も…」

 突拍子もない言葉。しかしソレは嫌な程に的確で。
 まるで透明な水に墨を落としたかのよう。
 私はどうにも歪んだ笑みを浮かべて、頷いた。

 「…ああ、まだ…終わらないのだな…」

 酷く生きにくい世界だとしても。それでも手を放すことは出来ない。
 私はみっともない程に最期まで足掻いて、そして誰もが目を背ける程に醜く残酷に死ぬのだ。

 それが私に科せられた罪悪。

 「燦斬…お前も楽には終われまいよ」

 「元より楽に終わる気なんてないですよ」

 私と同じように罪悪に塗れた忠臣は、苦笑交じりにポツリと落とす。

 「……本当に後生なことですね…」

 ちらり、ちらり、と紅い椿の残像が。
 ゆらり、ゆらり、と生まれた波紋が波立って。

 私達は不安定な水面に浮かび、時に飲まれ、時に荒立てながら生きていくのだろう。
 それはとても残酷で。
 とても醜悪な。

 

 「まだまだ…終われないのだな…」

 

 呟きは、枯れる前に。

 ぽとり、と落ちた

 

 




背景素材提供 十五夜 様