唇に触れないで

 



一瞬、何が起こったのか解らなかった。

 

 

私はその日頑張ったご褒美に、姫から今話題の、なかなか買えないロールケーキをいただいてご機嫌だった。

ずっと食べてみたかったのだけど、こんな仕事をしていたらなかなか並ぶことも出来ないし、休みの日も名前の通り『休んで』終る毎日だったから。

丁度、貰ったと掲げて見せるそのケーキの箱に大興奮。

姫と、姉さんと、アポロと私とでわけわけして。

噂に違わない、濃厚な生クリームとふわふわのスポンジに舌鼓を打っていた。

 

そんなところに、あの魔族がやってきて。

 

「お、あの店のケーキ」と呟いたから。

私はちょっと意地悪心で、空の箱を見せびらかせて

 

「残念ね。今食べ終わったところよ。

 もう少し、早く来てたら一口分けてあげたのに」と。

 

 

 

その瞬間。

 

 

唇に、柔らかいモノが触れて。

 

 

それが相手の唇だ、と理解するまで数秒かかった。

 

 

完全に思考も、何もかもフリーズしたまま。

 

 

それこそ瞬きも出来ないで、ただ硬直。

 

 

間近に男の碧の瞳。

 

 

触れたばかりの唇が。

 

 

「…ん。こんな味か。

 牛乳が濃厚なんだな…」と。

 

 

言っている内容が、理解出来ない。

この男の行動が理解出来ない。

 

 

動けないでいる私に、男は更ににっこりと笑って見せて。

 

 

 

「御馳走様」

 

 

 

嫌味な程、鮮やかに笑ってみせた。

 

 

その笑顔に魅せられて。

その、今触れたはずの唇に魅せられて。

碧の瞳に魅せられて。

 

もう。

どうしようもない。

 

 

 

濃厚な生クリーム。

ふわふわのスポンジ。

そしてあの男の唇。

 

 

ぐるぐるぐるぐる。

余韻が回る。

 

思考回路は動き出すまでかなりの時間がかかって。

折角午前中頑張ったのに、午後からの仕事は全くはかどらなかった。

 

 

 

どれもこれもアイツの所為!!!

 

 

 

私は、あの男が触れたはずの唇にそっと触れて。

なんだか説明のつかない気持ちを持て余して。

 

盛大な溜息を吐きだした。

 

 

 

 

 

「はぁ───────────────────────あ」

 

 

 



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