(二)

  

週明け。

週末はヒュンケルが提案した通り、村に帰って母に会ってきた。

何度会っても、ヒュンケルは慣れるということがないみたい。

何時だって、何処か緊張しているみたいに見える。

 

キメラの翼があるから、とかなり遅い時間まで村に滞在したのだけど、思い返してみれば週末までみっしりとヒュンケルは残業続きだったから。

かなり。気付かないように努めているのは解るけれど、かなりお疲れ様モードのようだ。

 

今日は週明け初日ということもあってか、久しぶりに残業もなく帰って来たけれど、夕飯の途中から珍しく欠伸を零していた。

 

 

そして片づけをして、居間に戻れば。

ヒュンケルはいつもの定位置のソファで、うつらうつら、と。

 

一緒に暮らしていても、こんなヒュンケルを見る機会は滅多にない。

だらしないところや、そうゆう『隙』みたいなもんもがない人なのだ。

それは正直、自分ばかりボロを出しているようで。自分ばかり迷惑をかけているようで心苦しかったりもするけれど。

 

今、こっちに隙を見せて睡魔と必死に戦っている様は。

私に気を許してくれている、ということの証明で、なんとなく嬉しい気持ちになった。

 

暫く、悪いと思いながらも観察を続けてみる。

そしてこの人は本当に綺麗な顔をしているなぁ、と感心する。

私の、日に焼けた肌とは大違いで、まるで太陽に見離されたような白い肌。

今は閉じられていて見ることは出来ないけれど、その瞼の下の氷のような薄い青の瞳も。

銀の糸を集めたような、髪も。

戦士として申し分ない、しっかりとした骨格についた筋肉も。

小さな傷、大きな傷、様々な傷が付いているその身体も全て。

 

とても綺麗だと思った。

 

 

ヒュンケルは私が見ていることに気付きもしないで(これもとても珍しいこと!いつもだったらすぐに視線に気付くのに)

とうとう耐えかねた、と言う風にソファに上体を横に倒した。

眉間に微かに皺を寄せて。

光を遮るように、顔の上に大きな手を翳す。

 

そうして見ると、『男の人』の大きな手を意識することが出来た。

長年、剣を使っていることで出来たタコや、酷使して歪み、変形した手の骨格。

武骨であるハズなのに、その使いこまれた筋肉と骨はとても綺麗で。どんなものよりも信頼出来るものに見えた。

 

この手に何度も救われたのだ。

この手に何度も守ってこられた。

そして、これからもこの手は私を守ってくれるだろう。

ずっと。ずっと。

 

 

気付けば、随分と呼吸は穏やかなものになっていて。

ヒュンケルが寝付いてしまった事を物語っていた。

机の上には持ち帰った仕事の書類が出しっぱなし。

きっと寝付くつもりはなかったのだろう。仮眠程度のつもりだったに違いない。

だけど思った以上に疲れてしまっていた様で、今ではすっかり。

 

すぐに起こすのも忍びないので、とりあえず一時間くらい様子を見てから決めることにした。

ぐっすりと寝入ってしまってるようだったら、ベッドに運べばいいし、起きそうだったら起こして仕事を続けるか、もう今日は寝てしまうか選んでもらえばいい。

 

滅多に見れない、彼の寝顔を眺めながら穏やかな気持ちで決めて。

私は読みかけだった小説と、ミルクを多めに入れた珈琲をお供に彼の斜向かいの一人がけソファに陣取った。

 

 

§§§§§§§§§§§§§§§§

 

 

読んでる小説が丁度ひと段落ついたトコロで顔を上げると、壁掛け時計はあれから時間が一時間半程過ぎていることを教えてくれた。

熱中していたらしい。

 

ヒュンケルを見ると最後に見た時と殆ど変らない格好で、規則正しい呼吸のまま、眠っている。

 

これは、今日はこのまま眠らせる方が良さそうだ。

 

何時もに比べれば、幼くも見えるその寝顔に、つい笑みを零してしまいそうになりながら立ちあがる。

読書で固まった身体を大きな伸びを一回することで解して、すぐに運べるようにヒュンケルの寝室のドアを開ける。

 

そういえば、ヒュンケルの寝室を覗いたことは数えるほどしかない。

悪いことをしているような気分でそこを覗けば、驚くほどに私物の少ない部屋がある。

ベッドサイドのテーブルに畳んだマントがあるくらいで、それ以外はキチンとあるべき場所に収納されている。

 

本当に。

何処までも隙がない。

 

そんな、何処までも彼らしい部屋に苦笑をひとつ。

自分の部屋は小さな小物や、教会の手伝いで知り合った子供達の絵や、それこそ洋服なんかが沢山。

決して散らかっているわけではないけれど。

この部屋と比べると、ごちゃごちゃとしていると言わざるを得ない。

 

欲を言えば、もう少し隙を作ってくれる方が私としても楽なのだけど。

相手がここまでしっかりしていると、自分も気が抜けない、というか。

だらしない部分を見せることが出来ない、と気を張ってしまう。

私ばかりだらしないのも癪だし。

そんなことで嫌われるなんて絶対に嫌だし。

 

それを母に言ったら笑われて、「それくらいが丁度いいわよ?貴女には」と言われてしまった。

 

そんなことを思い出しながら、ドアストッパーでドアを固定して。

振り返れば、ヒュンケルはさっき見た時と同じ姿勢のまま眠っている。

 

そう。何時もでは考えられない程隙だらけで。

 

こうゆうのをもっと見せてくれればいいのに。

家族になるんだから。

 

その考えは自分でも吃驚するほど幸せを呼び醒ましてくれるものだった。

 

『家族になる』。

自然に浮かんでくる笑みをそのままに、私はソファで横になるヒュンケルに近づいた。

 

起こさないように、出来る限り気配を消して。

眉間の皺もすっかり取れて、穏やかになった寝顔を壊さないように。

そっと、手を伸ばす。

 

 

瞬間。

 

 

それはまさに一瞬の出来事だった。

 

 

 

今まで、殆ど身じろぎもしないで眠っていたヒュンケルが伸ばした私の腕を掴んだ。

そして引っ張り倒される。

私が反応するよりも早く、私の腕を引っ張った反動で身体を起こしたヒュンケルと私の位置が入れ替えられる。

 

私の身体はソファに、ヒュンケルは起き上がって私の上に屈みこむ姿勢に。

 

「…え?」

 

それはまさに、今まで培ってきたヒュンケルの戦士としての勘のようなものなのだろう。

誰かが近づいてきて、触れようとしたので咄嗟に反撃の姿勢に出た。

 

考えれば解ることなのだけど、あまりにも咄嗟のことで。

私はただきょとん、と。

そしてまだ、若干寝ぼけているヒュンケルも、そんな私をきょとんとした顔で見ていた。

 

 

 

それは数秒。

ほんの数秒。

 

私達は見つめ合って、そしてどちらともなく、瞳を閉じた。

 

 

§§§§§§§§§§§§§§§§

 

 

眠ってしまったらしい。

ぼんやりと鈍く纏まらない思考の感覚と、起きだしでむき出しのような感覚に眩暈を覚えながら。

その未だ上手く現実と折り合いのつけれない状態で、俺は起こってる事実を必死で認識しようとしている。

 

何故か。

多分俺が寝ていたであろうソファに(その記憶はある)彼女が横たわっている。

というより、未だに俺が掴んでいる彼女の腕から察するに、きっと俺が引っ張り倒したのだろう。

 

吃驚したような、それでいて無防備極まりない彼女は、ただ、俺を見上げている。

 

もしかすると、彼女は俺に毛布でもかけようとしてくれたのかもしれない。

きっとそんなところだろう。

 

掴んでいる腕を放すか、引き起こすか。

そう、こんな状況はダメだ。

 

解っているけれど。

 

俺はぼんやりと、思考が寝起きで上手く働かないと言い訳をしながら、彼女を見降ろしていた。

 

 

沈黙。

それはきっと短い時間。

 

彼女がほんの少し、身をよじった。

それがきっかけになった。

 

 

 

 

本能が、逃すまいと。

 

 

 

 

急きたてた。

 

 

そして急きたてられるまま、彼女の口を己の唇で塞いでいた。

何時もの。子供のような、触れるだけの物ではなく。

もっと深い。吐き出される呼吸すらも全て食らい尽くすような、そんな深いキスを。

 

やや乱暴な程に、彼女の小さな顎を掴んで。

閉じられた歯列を、舌でなぞる。

何度かなぞっているうちに、恐る恐るといった具合に彼女の歯列が緩んできた。

 

 

頭の片隅で『ダメだ』と声がする。

しかし、そんな理性の声を嘲笑うかのように突き動く本能は、狂おしいまでの熱を伴って彼女の口腔を味わった。

 

互いの舌が触れた瞬間に、その小さな舌は吃驚したように逃げようとする。

その慣れないあどけなさに、つい笑みが零れそうになる。

 

遠くで響く制止の声は、あまりに遠くで届かない。

抑制の効かない本能が、暴走する。

 

 

狭い口腔の隅々まで調べつくそうと言うように、彼女の小さな舌を追い、歯列をなぞり、舌の裏に溜まった甘い唾液を味わう。

何度か彼女が身じろぎをするのを、上から抑え込んで。

更に深く。

全て、食い尽くさんとするように。

 

塞いだ唇の端から、含み切れなかった唾液が零れる。

彼女の白く柔らかな曲線を描く輪郭に沿って流れる、その透明な雫は俺の中の凶悪なまでの本能を更に。

危険な程に刺激した。

 

その雫を追うように、舌を這わせて。

首筋へと誘われるように。

 

唇を解放されたことで、彼女が深く息を吸うのが胸の上下で見てとれる。

首筋に舌を這わせながら観察したその動きは、まるで誘惑でもしているように写った。

 

『ダメだ』とまた声がする。

解ってる。

解っているさ。

ダメなことぐらい。

嘲笑するように、俺はその制止の声に応える。

追い打ちをかけるように、親友の声がする。

 

『結婚するんだろう?なんの問題があるよ?』

ああ、その通りだ。なんの問題もない。

解ってるさ。

言われなくても。

 

解ってる。

解ってる。

解ってる。

 

 

解ってる?

 

 

本当に?

 

 

瞬間。

解放された彼女の口から、俺の名前を呼ぶ声が。

 

 

「ヒュッ…ヒュンケルッ…」

 

 

その声に含まれているのは、『驚き』と、『恐怖』。

 

 

 

『ダメだ』という制止の声が。

やっと、本能に追いついた。

 

 

§§§§§§§§§§§§§§§§

 

 

そろそろを顔を上げれば、彼女の茶色の瞳が、今にも涙を零さんとする程に溢れさせて、そこにあった。

その瞳に齎されるカウンターでもくらったような衝撃は、一瞬で俺を現実に引き戻す威力を持っていた。

 

かける言葉は見つからない。

傷つけてしまったことは必至で。

それはどんな誤魔化しも通用しないし、言い訳も不可能。

 

未だ、未練たらしく抑えつけている腕から力を抜いて、そっと彼女の腕を放すと、痛ましい程に震えている。

力で抑えつけられて、無理矢理組み敷かれたのだ。

当然の反応だろう。

 

彼女の瞳から目を反らす。

その目を見続けることは出来なかった。

 

傷つけてしまったことは明白で。

こんな目に遭わせることはないと固く誓ったはずなのに。

彼女を怖がらせたり、傷つけたりしないと。そう誓ったはずなのに。

 

なのに結局。

俺の脆弱な理性は簡単に飲みこまれてしまった。

 

「…ヒュ…」

「すまない…」

 

彼女の、未だに微かに震えの残る声に心が痛む。

俺は一度、強く目を瞑ってから。

 

振り切るように、立ちあがって部屋を後にした。

 



 
背景素材提供 フランクなソザイ 様