(三)
暖炉の前。
薪が爆ぜて、火花が散る。
その火花を眺めながら、ラーを膝に乗せて、ロッキングチェアを揺らす。
心地の良い揺らぎと振動。
暖かい子供の体温と、暖炉の熱。
遠い目をしたまま、何処かを一点に眺める碧の瞳。
たどたどしく語られる、心情。
途切れがちの言葉。
母親。
剥きだしの感情。
痛々しい傷。
真新しい火傷。
私は何も言えないでいる。
何を言うべきかも解らない。
ただ、腕の中にこの子を抱いて。
離さないように。
失わないように。
じっと。耳を傾ける。
自分がつけてしまった傷を眺めて。
人間がつけた傷の大きさを見せつけられて。
母親の子供への愛情を痛感して。
思い返してみれば、この子がこんな風な表情をするところは見たことがない。
いつも笑顔で。
どれだけこちらがつれなくしようとも、相手にしなくとも、それでも何時だって笑顔を向けてくれた。
しかし、それも虚構だったのだろう。
子供ながらに、ずっと無理をしてきたのだろう。
そりゃあそうだ。
知らない大人と一緒に、知らない場所で暮らす。
他に誰も頼れる者のない世界で。
何処にも行くことの叶わない世界で。
自分の身を守る方法は、相手の気を損ねないことだけ。
ずっと。
そうやって。
息を潜めて、自分を殺して、戦い続けてきたのだろう。
思い至って。
刺さるような痛みを胸に覚えた。
腕に抱いた子供を抱え直して、その小さな頭の上に顎を置く。
自分の子供が化け物と呼ばれること。
そして自分の愛した者が化け物を呼ばれること。
それは許容出来ることではないだろう。
外見はどうであれ、それは自分にとっては何よりも替えがたく、美しい存在であるはずだから。
この子の母親は、何処までも何処までも。この子を愛していたのだろう。
それは疑う余地のない程に。
もし。
ディーノが何処かの場所で、私の血の所為で『化け物』と蔑まれ、忌避されているとすれば。
それは耐えられない痛みを伴う。
その痛みを軽減させる方法を、私は知らない。
「ねぇ…バラン様…」
「なんだ…?」
「俺…楽しかったんです…」
「…ああ、そうだな…
「楽しくって。悲しくって。嬉しくって。苦しくって。幸せで。寂しくて。暖かくて。とても寒くて。
解ってるのに。解らなくて。知ってたのに。忘れてて。眩しいのに、真っ暗で。
どうしようもなくて。どうにもならなくて。解らなくて。わからなくて。わからなくて…
でも。解ってるんです。
俺は人間じゃないし。
俺は化け物で。
だから母はあんなに苦しんで。充分な治療も受けられなくて。お墓にも入れて貰えなくて。お爺ちゃんはあんなにも憎んでて。村の人だって憎んでて。
けど母は父を心の底から愛してて。
俺のことも心の底から愛してて。
もし、父と出会わないで違う人と結婚して、普通の。人間の子供を産んでいたとしても。
それでも絶対に。
父と出会って俺を産んだ人生の方が幸せだと。
ずっと。ずっと。ずっと言ってて。
そんなこと…あるはずないのに」
「…ラー…」
微かに声が震えて。
子供が涙を堪えているのが伝わってきた。
小さな肩が震える。
しかし、決して人前では泣かないのだろう。
それは長くはない付き合いだが、解る。
これはこの子のプライドなのだろう。男の子らしい。しっかりとした。きっと母親譲りのプライド。
「そんなことも…あるんだよ…」
背中を撫でて。ゆっくりと。言葉を紡ぐ。
「私の愛した人も人間だった。
だが、不幸なことに彼女は死んでしまった。
私の所為で。
彼女と同じ人間の手にかかって。
もし、私と出会わなければ、今も彼女は生きているだろう。
そして、誰か違う人間と結婚して幸せな家庭を築いていただろう。
だがな。
断言出来るんだよ。
私達が出会い、子を産み育てたことには比べようもない、と。
私達は本当に幸せだった。
結果、未来が不幸なことになってしまったけれど。それでもその出会いを後悔はしない。
失った事はとても悲しいことで、きっと、この痛みは一生消えることはないけれど。
彼女と出会わない人生に比べれば、この痛みを背負う方がいい」
「…俺は母が生きてる方がいいです…」
子供らしい本音に、「そうだな」と同意を返して。
「私だって彼女が生きていてくれれば嬉しいさ」と。
決して叶うことのない願いを口にする。
「だが失ってしまったモノは戻らないんだよ…」
小さな肩の震えが、一瞬、大きくなる。
押し殺した声が。
肩口に強く押し付けられる額が。
熱と痛みを伝達する。
それが落ち着くまで、ただ、撫で続けた。
小さな背中を。
細い肩を。
何処かの女が『天使』と呼び、愛した子供を。
そして弱い人間たちが『化け物』と呼んで傷つけてきた子供を。
この子が化け物と呼ばれるのならばそれは私も同じこと。
私とて、人ではないし。世界に対しての脅威で言えば、私の方が遥かに上だ。
「…ラー…
確かにお前が母親を失って悲しいのは解る。
辛い思いをしてきたのも解る。
だがな。だからこそ、今。
お前は此処にいるんだよ」
母親が死んでなければ、この子が処刑されるようなことはなかっただろう。
あの日、偶然、あの村の上空を通りかからなかったら、私とこの子は出会うことはなかった。
ディーノを探していなかったら、あんな場所を通りかかるようなことはなかった。
ディーノが行方不明になっていたからこそ。
そしてラーが殺されそうになっていたからこそ。
私達は巡り合い、此処にいるのだ。
こうして一緒に。
「お前が化け物だとしたら、人間でない私だって化け物だ。
いいじゃないか…
似合いの親子だろう?」
ラーはほんの少しだけ、顔をあげた。
碧の鮮やかな瞳は、蕩けたドロップのように潤んで零れそうだった。
そしてその瞳がじっと。
じっと私を見ている。
瞬きひとつすることなく。
ただじっと。
じっと。
そして、長い時間を経て。
緩やかに、その瞳が。
笑みの形に歪んだ。
「…『親子』…」
微かに呟かれた言葉は確かにそう言ったように聞こえた。
その声は何処までも嬉しそうで。
そして幸せそうな声だった。
§§§§§§§§§§§§§§§
「 trick or treat 」
朝の気配。
そして子供の声。
昨日はあのまま、ロッキングチェアでラーを抱いて寝てしまった為に身体が酷く鈍く痛い。
目を開ければ、笑う子供の顔。
「菓子なら机の上だ。悪戯は後にしてくれ」
「後だったらいいんですか?それにお菓子を貰ったら悪戯しないんですよ?」
私の膝の上で。
もぞもぞと動いて、どうやらポケットに入ったままだった飴を見付けて口に入れる。
「やらなくても持ってたな」
「机にあるのもバラン様がくれた奴じゃないです」
瞼はまだ幾分腫れぼったく見えるが、身体全体から発していたあの痛々しさは霧散していた。
大きめな飴が、可愛らしい頬にぽこりと存在を主張する。
「私が買った物もあったはずだぞ?」
起き上がろうと力を入れれば、腕が首にまわされた。
「…どうした?」
問いても答えは返ってこない。
ただ、抱きついたまま暫くそのまま。
そして抱きついてきた時同様に、いきなり離れて。
ふふ、と笑った。
糾弾したい気もしたが、その笑顔があまりにも可愛らしかったので。
なんだか聞くのも野暮に思えて、質問は保留することにした。
ラーは机の上に出しっぱなしの食料品を手早く直して、朝食の準備に取り掛かる。
その小さな背中を眺めながら、まだ微かに痛みを残す記憶を引っ張りだす。
きっとこれからもこの子を傷つけることが多々あるだろう。
一緒に生きて行くということはそうゆうことだ。
もしディーノが見つかったとしても、きっと私はディーノも傷つけるだろう。
それでも。
それでも私は。
「…護ってみせるさ」
思いは我知らず声になり。
そして誰に拾われることなく、落ちて消えて行った。
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