03  冷たい風の中、凛と

 

(たちばな)(ゆずる)はぼんやりと窓の外を眺めた。

この辺りの天気はほぼ、年中どんよりとしている。

この学校が建っている山が雲を塞き止めてしまっている所為だ。だからこの山の向こうは逆に、殆ど年中晴れている。

 

私立ジャスティス学園。

日本有数の超がつく進学校だ。

生徒は入学から卒業まで寮生活を余儀なくされ、殆ど外出もままならない。

そんな世界がこの連日の、明けない空だ。

どんなに強い人間だって、鬱になりそうな気がする。

受験ノイローゼ。年間、何人かが必ず罹患して、戦線離脱していくのを目の当たりにしていれば、それは他人事ではなく、また風邪のように在り来たりな症例にも思えた。

 

自分はなんとか授業について行っているが、楽ではない。

ここのカリキュラムは高校三年間で習うことを、二年で終了させるのだから。

残りの一年間は、ただ只管に志望校への受験対策に費やされる。それはもう、学校と呼ぶよりかは予備校と呼んだ方が正しいくらいだ。

勿論、その分合格率は酷く高い。

世間巷で反対される『詰め込み教育』を徹底して行う。それがここの教育方針だ。

 

ふ、と窓際の空席が目に付いた。

ここ一週間程休んでいるクラスメイト。

ジャスティス学園で一週間休むとなると、余程のことがないと授業復帰は難しい。

付いていけなくなる。

結果は、良くてクラス落ち。(この学校は成績ごとにクラス分けされている)悪くて退学。

長期休みを取って、平然と授業復帰したのなど、この学校では彼だけだろう。

そう、彼。

 

そして譲は時計を見た。

HRが始まって8分。もう間もなく終わるだろう。

そして予想通り、教師の言葉が終わり、級長が号令をかける。

放課後、と言ってもこの学校には解放感はない。

予習復習は当たり前なのと、生徒は必ず入らなければならないクラブ活動もある。(しかもクラブは個人が選べるわけでなく、学校が適正を判断して所属を決めるので、どちらかといえば課外授業に近い)

そして譲は、というと。

彼女は特別だった。

 

この学校で職員以上に力を持っているかもしれない『生徒会』

生徒会役員はジャスティス学園の成績優秀者によって選抜される。そして彼らはクラブ活動従事を免除されている(とはいっても生徒会自体がクラブのようなものだが)

ある程度の免除と引き換えに、学校や他の生徒への奉仕に殉ずる。

言うなれば、これは政治クラブなのだ、と思う。

どの生徒会役員を見ても、政治家気質というか、組織を作り上げる、纏め上げることに長けている気がする。

こう思えば、成績優秀者によって選抜されたメンバーと言われているが、これもまた学校側が適正資質を判断して選抜したとも言えなくない。

 

そしてその生徒会に長として君臨するのが、生徒会長、忌野雹。彼その人だ。

入学試験を過去最高の点で突破し、ソレ以降彼は成績トップを維持し続けている。

容姿端麗、カリスマ性の高さ、そして何よりこの閉鎖された学校の娯楽のなさから一気にアイドルになった。

アイドルというよりかは宗教のソレに近いけれど。

そしていつの間にか『忌野雹親衛隊』が男女問わずに結成され、ミーハーな友人に付き合っているうちにひと波乱あって、気が付くと彼女は親衛隊長になっていた。

というよりも、彼女の立場は忌野雹の個人秘書に近い。

 

そして彼の一存で、彼女は課外活動を免除された。

一言。「譲が手伝ってくれないと困る」。これだけで。

 

そして彼女は今日も何時も通り、生徒会長室に向かう。

通い慣れた廊下。ノックし慣れた扉。

何時ものように、ノックを三回。

返事がないのを確認して扉を開ける。

基本的に彼女の方がこの部屋には先に来るのだ。

 

そして何時ものように、彼がやらなければならないことの優先順位をつけて、それを整理していく。

物によってはメモをつけて、自分が見る必要のないものは一切の興味を持つことなく。

 

ある程度片付いたくらいに、彼が部屋に入ってくる。

その頃には用意した湯が丁度、お茶を淹れる温度に適温となっているから、譲はそのまま彼にお茶を用意して。そして何時ものようにそっと、顔色や疲れがないかを確認する。

 

「譲、大丈夫だ」

 

苦笑交じりに。何時ものように言うけれど。

確かに今日は本当に『大丈夫』なようだ。

しかし何時も大丈夫なわけではない。彼に何かあったら報告するようにと彼の養父である学長からも、時々彼を訪ねてくる彼の兄のような燦斬という人にも強く言われている。

それを言えば「みんな心配症だ」と呆れたように彼は零すけれど。

「それだけ大事に思われているんでしょう?」と言えば、怪訝そうな。そして何処か迷惑そうな顔をして小さく首を横に振る。

「少なくとも私は大事ですよ?迷惑と言われようとも」

告げれば困ったような顔になり、そしてついに笑う。

私はこんな風に、普通に笑う彼が一番好きだ。

「譲には敵わないな…お前の為に気をつけるとしよう」

「あら、それは光栄ですね」

茶を出せば、それを疑うことなく口に含む。

他の人間が淹れたものは、それとなく確かめることを彼女は知っている。こんな些細な所にも見え隠れする自分への信頼感が嬉しい。

 

「今日は外出されるんですよね?」

 

言われてはいなかったけれど、なんとなく。昨日の彼の動きを見ていると。

だから外出用にも準備をしておいた。

それをそっと机の上に置くと、彼は少しだけ笑みを深くする。

詮索されたことを責めることもなく、察したことを褒めるわけでもなく、自分の側にいるのならそれくらい出来て当然だ、と。そしてだからこそ自分の側にいることを許しているのだ、と言えるような。

そんな態度。

そして、そこに満足感すら得てしまっている私がいる。

 

「ゆず、棚の黒いファイルを詰めておいてくれ。後、外出後の指示は総てパソコンの中に入っている」

 

機嫌が良い時は、彼は私のことを『譲』ではなく、『ゆず』と呼ぶ。

たった一文字足りないだけなのに、とても親しく思ってくれているように感じる不思議。

言われた通り、黒いファイルを書類ケースの中に詰める。

このファイルの中身は知らない。

彼が、本来なら生徒には許されていない『外出』の先で何を行っているのか解らない。

時々彼が電話でロシア語や、スペイン語、中国語や韓国語、英語で話している場面に遭遇することがあるが、そこは詮索しないことにしている。

きっと、私に関係があれば彼は私に話してくれるだろうから。

話さない、ということは私が関与すべきではないことだ、ということ。

そこがわきまえられてないと、きっと彼の側にいることは出来ない。

気にならないか、と言われれば。連日の外出続きで、どう見ても顔色、体力共に限界の日などは一体どこで何をしてきたのか?と問い詰めたくなる時があるが。

そんな時は、ただ静かにソファで横になる彼の横顔を見てぐっと我慢する。

きっと彼にとってもどうしようもないことなのだろう。

しなくてもいいことならば、彼は無理はしない。

だから。

私は書類ケースを手渡して、今入れた黒いファイルのことを記憶から抹消する。

 

「…天気、微妙ですね」

「ああ、今日はヘリだからな…風が強いと厄介なんだが」

 

この学校は屋上にヘリポートがある。とは言っても、実際使用しているのは彼だけのようだが。

私の視線を追うように窓の外を眺めて、肩を竦める。

 

「…まぁ大丈夫だろう」

 

楽観的に言い放って、大きく伸びを一回。

立ち上がると同時に出したお茶を一気に呷って、「御馳走様」とにこり、と笑った。

 

他の生徒は彼のこんな笑顔を知らない。

よく見せる、あの口角だけを微かに上げる、控えめな。笑みと言われなければ解らないような、そんな笑みか。

はたまた時折見せる、背筋が凍るような、酷薄で冷酷な笑みか。

それくらいしか、人前では見せないから。

 

準備した書類ケースと鞄を持って、彼の背中を追う。

生徒会長室を出ると、そこは生徒会室で、他の役員たちが一斉にこっちを振り返る。

外出をすることを見抜くと、目礼だけ寄越して、また自分の仕事に戻る。

ここにあるのは学生の生徒会ではなく、本当に一流企業の役員室のようだった。

 

屋上までの短い時間。

特に会話をすることもない。

すれ違う生徒が騒ぐ、黄色い声を上げる、視線が纏わりつく。それらをまるで、何一つ感じていないように鮮やかに無視をして。

私がちゃんと付いてきているかも確かめることなく。

一度も振り返ることなく。真っ直ぐに前だけを見据えて歩いて行く。

 

屋上階段の踊り場で、ふ、と彼が足を止めた。

 

「ゆず、風が強いから此処までで良い」

 

やっと振り返って一言だけ。

私はそれをやんわりと断って、「お見送りさせてください」と笑う。

その答えに何も返さずに、彼は再び背中を向けた。そして屋上への扉を開く。

 

曇天だとしても、薄暗い校舎の中に比べれば格段に眩しい。

風が悪戯に彼の髪を弄ぶ。

目の前で揺れる、白い絹糸のような髪は。

少ない光を反射して、キラキラと光って見えた。

 

ヘリはまだ到着していなかった。

確かに彼が言った通り、強い風が上空を乱舞している。

この辺りは標高が高い為、気温も低い。その分、紅葉も早く、周りの木々はもう随分と色づいてきているが。

やはりこの曇天では、その魅力も半減以下だ。

 

そんなことをぼんやりと思っていると、肩に何かがかけられた。

見れば、それは彼の上着で。

吃驚して顔を見れば、何事もないように「寒いのは好きだ」と言われた。

寒そうだから、とか。風が強いから、ではなく。自分が寒いのは好きだから気を使うな、と。

その不器用で、先を制する言い方に、つい。笑みが零れる。

「後で生徒会長室に置いておきますね」

きっと今返しても彼は受け取らないから。

私は素直にそれを受け取って、前を合わせながら約束を。

 

彼は返事を返さずに、何事もなかったように腕時計を確かめて、微かに眉間に皺を寄せる。

少し遅れているようだ。

 

彼と一緒にいる時に沈黙は苦痛ではないので、私は特に気にならないが。

かなり急ぎの用事らしく、彼は珍しくその顔に苛立ちを覗かせる。

そしてそれを誤魔化すように、屋上のフェンスに背中を預けて他愛のないお喋りを。

 

「ゆず、お前…志望学科、変更しないか?」

 

私の志望学科は東大文学部なのだが。

 

「変更、ですか?」

「理系に」

「無理ですよ」

 

高校二年の今から、ジャスティス学園で文系から理系に変更など。無理、というか馬鹿げている。

 

「無理じゃないだろう?お前なら充分出来るはずだ」

「無理です。貴方じゃないんですよ?」

 

言えば肩を竦めて。

 

「解らない所は私が指導してやるから」と。彼にしては随分としつこい。

「全く、なんなんですか?」

 

どうしたのか、と問えば。

彼はちょっとだけ困ったような、それでいて確信犯的な笑みを顔に浮かべて。

 

「そうすれば、もう少しだけ。お前と一緒にいれると思ってな」と。

思ってもいなかった告白を。

 

確か、彼の志望は東大医学部。脳外科希望。文系でいくなら法学部だったはずだが。

 

「…私、医者になる気はないんですけど…」

「お前は私の右腕として横にいてくれればいい」

 

さらり、と。凄いことを言われている気がする。

流石にそれで簡単に「解りました」と言って叶うことじゃない。

自分の今の成績で、急に理系に進路を変更するのは難しいし、理系進学になったらそれにかかる費用だって文系に比べて格段に上がるのだ。

そして何より、ただの理系ではない。東大医学部。こんなところに進学出来るのは宇宙人くらいだ。

 

私の困惑を見抜いたうえで、彼は楽しそうに。

「考えてみろ。やる気になったら協力は惜しまない」と。

 

その笑みに流されそうになっている自分を自覚しながら。

私はなんとか憎まれ口を叩くことに成功して。

「それで受験失敗して浪人とかなったらどうしてくれるんですか?」

「時間が出来るなら、私の横にいて貰うさ」

「…それって狡くないですか?」

「大丈夫。私の譲ならやってのけれるさ。今までだってそうだろう?」

 

ここで『私の譲』ときたもんだ。

みっともないくらい赤面した顔を隠すように俯いて。

私は返事を保留して、そっと彼を盗み見る。

 

 

上空のヘリを探して、上を見上げ。

冷たい風の中真っ直ぐに。

どんな角度から見ても、とても絵になる人で。

ただ凛と。

 

 

きっと私は彼に言われた通りに進路を変更するのだろう。

彼が望むなら、どれだけ渋っていても最終的にはきっと彼が望むとおりに動くのだろう。

 

囚われている。

だけどこの檻はとても甘美で。

そして動きたくない場所。

 

 

遠くから、空気を震わせるヘリのローター音が近づいてきた。

彼の視線を追うように、私も上空を見上げる。

 

相も変わらない曇天の向こうに、小さなヘリの影が少しずつ大きくなる。

彼が体重をフェンスから移行したのを見て、手に持っていた書類ケースと鞄を手渡した。

彼の表情は先程までのふざけた色はなく、仕事モードにチェンジしている。

 

「行ってらっしゃいませ」

「ああ」

 

言葉はヘリのローター音で掻き消される。しかし不思議と耳に届いた。

 

そして彼は振り返ることなく、いつものようにただ前だけを見据えて真っ直ぐに進む。

私はいつものように、その背中を眺めて。

そっと無事を祈る。

 

 

彼の、私に対しての想いは恋愛ではない。

これは信頼出来る部下に対しての情。

それが解っているのに、私の中の『女』の部分がこんなことがあると反応してしまう。

それは鈍い痛みとなって、ズクズクといつまでも治らない傷のように。

塞がってはまた開いて、を繰り返して。

そこに存在することを私に訴えるのだ。

 

遠くなる背中を眺めながら。

私は彼の体温と、匂いの染み付いた上着の前をキツく合わせた。

 

 





 

背景素材提供 空に咲く花 様