風と唄えば






風の音に顔を上げる。

窓を強かに打ち付ける風は、先程より威力を増しているようだ。

私の視線に気が付いたボラホーンが「ハリケーンが近づいているようです」と報告してくれる。

魔界の天候は変化が激しいが、ここ、ドラゴン領は比較的穏やかだ。

だがそれでも、時に天候不順の波に呑まれることはある。もしくは原因が竜にあるか。

天候を操るドラゴンも勿論存在する。その竜の機嫌が悪かったり、何かの原因で暴れるようなことになれば、このような天候になることは充分に考えられる。

それこそ、魔界全土を巻き込むような天候不順だって、充分に。

 

興味を失って、再び仕事へと意識を戻すと、ボラホーンもそれに倣って仕事へと戻る。

こっちが注意をしなくとも、竜舎の補強は完了しているだろうし、この建物自体はもし万が一飼育している竜が暴れても持ち堪えられる様な作りになっているから余計な心配はいらない。

ただ、外の風の音。そしてその風が窓を打つ音が煩わしいだけ。

だがそれも、仕事に集中すれば知らず気にならなくなる。だから、帰る時間になるまでソレを再び意識することはなかった。

 

帰る時に外を見れば、横殴りの雨が降り注ぎ。それだけで、げんなりした気分になる。

待つ人もいない身分だったら、もう帰るのを辞める所だが。今は家に幼い子供がいる。

引き取って最初のうちは、他人が家にいること自体が煩わしくて、それが嫌で帰らなかったこともあったが。それもだいぶ慣れて。

それなりに良い関係が築けつつある、と自分では思っている。

何はともあれ。帰ってきて「おかえりなさい」と誰かが笑顔で迎えてくれることは、ささくれた気持ちを癒す効果がある。

妻が死んで、子供の行方が解らない日々が続いて。

アレ以降、怒りと空しさ以外の感情を総て失っていた私に、それ以外の感情を取り戻させたのは。総て、小さな同居人のお陰と言っていい。

あの子を拾わなければ、きっと今もまだ。私はずっと、あの暗闇の中にいただろう。

勿論、今。あの暗闇から抜けだしたわけではない。

事あるごとに、妻の最期の瞬間を思い出し、行方、生死の解らない子供を思えば焦燥に駆られるが。それでも。

それでも、妻の笑顔も思い出せるようになってきた。

子供が生まれたあの幸せの絶頂の瞬間も思い出せるようになった。

暫く、そんなことさえ思い出せなかった。

悲しみと怒りはそんな大事な想いでさえも黒く塗りつぶしてしまっていた。

それが徐々にではあるが、思い出せるようになった。

それは、あの小さな同居人がいたからこそ。

最初は怪我が治ればとっとと追い出すつもりだったが、今は暫く一緒にいてもいいと思っている。

まだ暫くは。

 

 

ルーラを使おうとも、雨脚総てを防げるわけではなく。雨を吸って重くなった鬱陶しいマントをポーチで外しながら、玄関のドアを開ける。

此処ら一体に結界を張ってあるので、不審者が入ってくる可能性はない為鍵はかけていない。

(そもそも竜の騎士の家に入り込む不審者は、ただの自殺志願者だ)

いつものように抵抗なく開く扉の向こうは、ただ静かだった。

 

その違和感に。一瞬、立ち尽くす。

 

いつもなら。ルーラの振動を感知して、玄関まであの子は出迎えにくる。

そして笑顔で「おかえりなさい」と迎えてくれるのだが。

 

一向に。出迎えにくる様子はない。

近づいてくる足音も。夕飯を作っているような音も。そして気配も。

 

何かあったのか?と。マントをかけるのももどかしく、玄関にそのまま放り棄てて、家の中に入った。

玄関からリビングに続く短い廊下を抜けて、リビングを覗くが誰もいない。

そしてそのまま、繋がっているダイニング、キッチンを覗くけれどそこにも誰もいない。

階段を登り、あてがった子供の部屋を覗くがそこにも誰もいない。

他の部屋を総て覗きこむが気配はない。

声をかけるが返事はない。

雨の中外に出て、裏にある竜舎を覗くがそこにもいない。

近づいているハリケーンに興奮している竜が、ぴりぴりとした空気を発しているだけ。

もしかして、興奮した竜に殺られたか、と竜を調べても見たが何処にもそのような跡はなかった。

血の跡も、臭いも。

 

途方に暮れて、家に戻る。

もしかして、出て行ったのか?とも思ったが。

この周辺に張った結界は中から外に出ることも容易には出来ない作りになっている。

ルーラを使えば、容易だが。あの子はルーラを使えただろうか?

考えて、頭を振る。使えないはずだ。

 

では一体何処に?

周辺の森を散策しているのだろうか?

こんな雨の中を?

もしかしたら、森の中で迷子にでもなっているのだろうか?

それは考えられないことではなかったが、普段森の散策はよくしている。

食卓に採ってきた茸などを並べることもあった。

方向感覚は自信があると言っていた。そんな子が迷子になるだろうか?いや絶対にない、とは言えない。

もしや、雨で泥濘に足を取られ動けなくなっている可能性もある。

そこまで考えて、再び外に出ようとした時に。

なんとなく、室内に違和感を覚えた。

 

リビングを見渡す。

特に何の変哲もないリビングだが。

それでも、いつもと何処か違う気がして。

よくよく、思い出してみると。

 

「…物が増えている…」

 

暖炉の上には何もなかった筈なのに、そこには保存食の瓶が。インテリアとしておかしくはないが、配置されている。

窓には、ピンクペッパーの瓶が。これもインテリアとしておかしくはないけれど、置いてある。

ダイニングを覗けば、いつもは片付けられている皿類が、完璧なテーブルセッティングとして並べられていて。

食器棚の、皿のあったスペースには再び、貯蔵してあった保存食の瓶が置かれている。

そこにあっても何ら不思議ではないカモフラージュ。いや、模様替えなのかもしれないが。

 

そして私はキッチンの足元を見る。

そこには地下の貯蔵室に繋がる扉があるのだが、その上に玄関にあったはずのマットが置かれていた。

それをずらして、扉を引く。そしてすぐ其処にある蝋燭に火をつけて、中を覗きこんだ。

大人が三人も入ればいっぱいになるような、そんな場所だ。

見れば、特に遮るような物はないし、隠れられる場所もない。

見渡して、再び。そこにもラーがいないことを確認して。やはり外か、と部屋を出て行こうとした時に、再び違和感を覚えた。

偶然壁を見て、そこに棚を動かした形跡があったから。

振り返り、貯蔵棚をよく見る。ほんの少し、前に見た時より、部屋全体が狭くなっているような気がした。

 

もしかして、と思いながら。一番奥の棚にある、一番下段の大きなピクルスの瓶を退けてみる。

 

「………何をしてるんだ?」

 

つい、言葉が漏れてしまうが。

そこで、ラーは小さく丸まりながら寝息を立てていた。

 

 

 

 

「ごめんなさい、すぐ晩御飯作りますね」

起きたラーは慌てる様に。そして誤魔化す様に。逃げ出す様に貯蔵室から出て、そしてキッチンに。

「何か食べたいものとかありますか?」

振り返り尋ねてくる。笑顔はいつもと同じ。

「いや…任せる」

「じゃあ簡単なものでもいいですか?早く出来るもの、ちゃっちゃと作っちゃいますね」

 

あまりにいつも通りだったので。これはただの遊びだったのかもしれない、と思った。

遊んでいるうちに、眠ってしまったのだ、と。

ただのかくれんぼ。

雨で外の散策も出来なくて、退屈だったから。

そうなのかもしれない。

 

どこか腑に落ちないながらも、出された食事を食べ終わることにはそんな違和感もすっかりなくなり。

玄関に脱ぎ散らかしたマントを見付けて、ラーが「しわになる!」と慌てた声を出した頃にはもう、忘れかけていた。

 

 

夜。

いつもならとっくに寝に行っているラーが、いつまでもぐずぐずとリビングにいるのも、遊びの途中で寝てしまったから大方眠くないのだろう、くらいに思っていた。

私は自分の読書に集中していて、ラーは与えた教材で勉強をしている。

私が騒がしいことが嫌いなことを知っているこの子は、いつも通り、格段に騒ぐこともなく。大人しく勉強をしていたのだが。

ぽつり、と。

「今日はずっとこんな天気なんですか?」と聞いてきた。

今日も何も、あとは寝るだけなのだが。明日は雨なのか?ならまだしも、不思議なことを聞くと思いながらも、私は「そうだな」と返事を返した。

予報では、今夜が山で、明日の朝にはハリケーンは通り過ぎると言っていた。

「明日には上がってるさ」

「…そうですか…」

ラーハルトは窓の外の闇をじっと見つめながら。

感情の籠らない声で呟くように言って。

そしてふいに目を反らせた。

 

いつもの笑顔や、子供らしい表情とは違うソレに。ざわりと胸が騒いだが。

次に顔を上げたラーが、いつものような笑顔を見せたから。見間違いだったのかもしれないと。勘違いだったかもしれないと。

「珈琲。お代り淹れてきますね」

そう言って。あと少しで空になるカップを私から受け取って、パタパタとキッチンへと。

 

「…………」

 

出鼻を挫かれたような、そんな気分で私は放り出されて。

そしてその違和感はその後、再び抱くことなく。結局問い質すこともなく、そのまま。

 

 

 

「もういい加減寝なさい」と声をかけたのは、日付が変わってから三十分ほど経過した頃。

ラーは小さな肩を一瞬震わせてから、顔をあげて。そしてそのままそろそろと、反抗することなく勉強道具を片付け始めて。

そして小さな声で「オヤスミナサイ」と言ってから、自室へと引っ込んだ。

私自身もその後小一時間程読書を続けた後、寝室へと引っ込むことにした。もう少し読んでいても良かったのだが、いい加減。窓を打つ風の音が五月蠅くて鬱陶しかったのだ。

 

何時もより早い時間の就寝なので、軽くナイトキャップにブランデーを飲んで。

そしてベッドに入る。

そのうち眠れるだろうと、そう思って。そしてその予想は外れることなく、程なく寝入り始めるが。

 

ふ、と。

音がした。

小さな音だし、外の風の音が五月蠅いのではっきり聞こえたわけではないが。

耳を澄ます。

外の音ではない。

確実に。家の中から聞こえる、その音に。

 

溜息をついて、ベッドから出ると。

この家で自分以外に音を立てる唯一の存在の部屋をそっと、覗く。

 

ベッドの上には小さな山。

だがシーツから微かに覗いたそれは人ではなく、服の裾。

そっと中に入り、シーツを剥がせば。そこにあったのは枕と服の塊。

 

「………なんなんだ?本当に………」

 

いい加減。イライラしてきた。

ベッドの下を覗きこむが、そこには何もない。

続いて、クローゼットを開く。

仕舞いこんあった、今の季節ではない服がかけられていて、その向こうで、明らかにびくりと動いた影がある。

 

「…ラー…」

 

自然に声に苛立ちが混じる。

「…あの…」

微かな声。服などの布に吸収される音は、さらにくぐもって聞こえにくいものになる。

それがますます苛立ちを加速させて。

私はやや乱暴に、クローゼットの奥に蹲ったラーハルトを引っ張りだした。

 

「私は早く寝ろ、と言った筈だが?遊ぶのは明日にしろ」

私の言葉に、ラーハルトははっと顔を上げて。暫く、じっと見ていたが。

私が変わらないことを見てとって、諦めたように「はい」と。消え入りそうな声で返事を返した。

 

ラーがベッドに入ったことを確認してから、私は自室に戻る。

遊び足りないのかもしれない。構って欲しいのかもしれない、と思うが。

私はあの子の親ではないし、他人同士だ。

同居人ではあるが、何処までも面倒を見る気はない。

 

こんなことが続くなら、追い出しても良いかもしれないと。昼間に抱いた想いを覆す。

確かにあの子の存在には感謝しているが、煩わされるのは御免だ。

 

自分のベッドに戻っても暫くは苛々していた。

お陰で眠れたのは、結局いつもの就寝時間よりも一時間程遅い時間になってしまった。

 

しかし、明け方。

再度、音がして。

 

「もう…いい加減にしてくれ…」

 

子供の遊びに付き合ってやる気はない。

私は苛立ちに殺気すら混ぜ合わせながら、ベッドから抜け出した。

 

 

 

音は寝室ではなく、一階から聞こえた。

外のハリケーンは通り過ぎる最後の名残として、これでもか!と風と雨を窓に打ちつけている。

どれもが煩わしい。

自然と寄る、眉間の皺をそのままに。音のしているキッチンを覗けば。

ラーが調理器具の収まっている棚の中身を出している途中だった。

 

その姿を暫く観察してから、いい加減に痺れを切らして。

 

「…ラー」

 

声をかけると、おかしな程に身体がびくりと飛び上がった。

そして、ゆるゆるとこっちを振り返る。

「………」

何か言おうとしたのか、唇が一瞬戦慄いたが。結局言葉は発されず、そのまま黙りこんでしまう。

 

「何度同じことを言わせるんだ?私はさっさと寝ろと言った。遊ぶのは明日だと。

 もう明日だとか、そんなくだらない屁理屈は聞かん。こんなくだらないことをして、何だ?構って欲しいのか?

 いい加減にしてくれ。付き合ってられん」

項垂れて聞いていたラーが。瞬間、顔を上げる。

そして。

真っ直ぐ。

その碧の瞳で私を見た。

 

「…構ってなんか欲しくない。付き合ってなんかいらない。五月蠅くしたことは謝りますが、放っておいてください」

 

一瞬。何を言われたか理解出来なかったが。

この子を引き取って以来、こんな風に自分の意思を言うことなどなかったし、私に口ごたえすることもなかった。

だから。虚をつかれたように。

しかしそんな時間は僅かで。すぐにそれは怒りに変わる。

 

同居しているのだから、放っておけと言われても放っておけるものもではないし、付き合うなと言われても現に物音で起こされている。

理不尽極まりない要求だ。

瞬間的に殴りたい衝動を覚えるが、だがそれを子供にぶつけるのは大人げない、と何処かで冷静に。

だから一度、息を深く吸ってから。

 

「ラー。早く。寝なさい」

 

子供が理解出来るように、言葉を区切って。ゆっくりと。

だがラーは唇を噛んで。こっちを睨み据えて。

そして、はっきりと。

 

「無理です」と言い切った。

 

いい加減。私にも我慢の限界がある。

多分に私の限界は普通の人間の三分の一か五分の一程しかないが。その臨界点が近づいている。

 

大股で近づいて、その握れば指が軽く余ってしまう細い腕を掴んで引き寄せる。

関節が抜けることも構わず思い切り引けば、痛みで顔を歪めるがそれに構う気もない。

そのまま、無駄な抵抗を続けるラーをずるずると引っ張って。二階へと連れて行く。

階段で暴れ、途中このまま手を離してやろうか、とも思ったが。

なんとか自室まで連れ帰って、ベッドの上に放り投げる。

が、勢いが強かった所為でラーはそのままベッドの向こう側に転がり落ちてしまった。

 

そのことにも苛立ちを覚えて、舌打ちを一回。そして近づいて、再びベッドの上に引っ張り上げた。

 

「面倒をかけるな。寝ろ」

 

暴れ疲れて、肩で息をするラーに指を突き付けて命令をすれば。

一度、キツく睨み返して。そしてすぐに、目を反らした。

シーツを持ち上げて、乱暴に中に押し込んで。そして枕を投げつける。

「解ったな」

返事を促すが、望んだ声は返ってこない。

苛、と。再び怒気が膨れかけた時に、窓を風が強かに打ち付けた。

ガタン、と。大きな音をたてて。

その瞬間、今まで見た以上に小さな体がびくんと跳ねた。

 

ラーはこっちを見ることなく、ただ窓を見遣る。

じっと。じっと。

瞬きすらせず。

身体を酷く硬くして。

そして数秒経過して、やっと。シーツを握り締めて、力み過ぎて白くなった手からそっと力を逃がした。

 

「…………もしかして、怖いのか?」

 

そう。明らかにその動きは、怯えているソレで。

ラーはそろそろとこっちを見て。その小さな頭を、僅かに縦に振った。

 

「ガタガタ言うのは嫌いなんです」

 

消え入りそうな声で、言葉を紡ぐ。

 

「窓や、ドアがガタガタ言うと…怖い人達が入ってくるから…」

 

再び、シーツを握る指に力が籠る。

白くなっていくその指と、そして表情が抜け落ちて行く顔と。

 

「ガタガタ、怖い音がすると。母さんは俺を隠して、出てきても良いよ、と言うまで隠れてなさいって言う。

 隠れてると、もっと、もっと怖い音がする。

 だけど、すぐに。出てきても良いよって…

 もう大丈夫だよって…

 だけど全然大丈夫じゃない。

 部屋の中は散らかってたり。時には母さんが怪我をしてたりして…」

 

私はベッドの空いてる場所に腰を下ろした。

そして白くなったその手の上に、自分の手を重ねる。

 

あれはかくれんぼなどではない。

アレは、子供の防衛手段か。

遊びではなく。楽しいものではなく。強迫観念のなせる技。

隠れていることを悟られないように、家の中をカモフラージュして。

貯蔵物を出して、棚を動かして、季節外のものを出してきて。

あそこまで、周到に。念入りにいじるのは、もう習性のようなものだろう。

見つからないように。見つからないように。見つからないように。

 

「言えば良いのに」

 

素直に言えば怒らなかったのに、と言えば。

ラーはやっとこっちを見て。未だに表情を戻さない顔を、横に振った。

 

「関係ないですから」

 

言われれば確かに。関係はない。

その都合はラーハルトだけのもので、私が関与する問題ではない。

だが。

「言ってくれれば、何とか出来る」

そう。

言ってくれれば。

こんな風にイライラすることもなかったし、乱暴に連れてくることもなかった。

力の籠った小さな拳は、冷たくなっている。

それがだんだん、私の体温で温められていくうちに、力が抜けてくるのが解る。

この小さな手の中に、必死で何かを隠して、そして護ろうとしている子供。

明らかに、幼年期から続く差別と虐待の色濃い爪痕。

きっと、これは簡単にはなくならないだろう。

ここは魔界で、結界が張ってあって、外敵は侵入してくることはないと。ちゃんとラーは解っているはずなのに。

それでも怯えてしまう、この行動からして。

 

この傷は。

深い。 

 

こんな小さな子供にそれだけの傷を刻んだことに怒りを覚える。

こんな小さな体でそれを耐えていることに、痛みを覚える。

 

すっかり力が抜けたのを見計らって、その手を握った。

 

「ラー、ただの風だ。何も怖いことなんかない」

「…解ってます。そんなこと…」

 

だけど。理屈じゃないのだろう。

解っていても尚。怯えてしまう。

これはもう、一種の生理現象のようなものなのだ。

 

普段は総てをその笑顔の下に隠して、悟られないように、こっちを気遣ってばかりだが。

この歳で両親を失い、そして自分もまた捕えられ、磔にあい処刑されかけたのだ。

滅多に自分のことを話そうとはしないが、知っているそれだけでも充分に傷を負っていることを想像するのは容易で。

尚のこと、それに気付いてやれなかった自分に腹が立つ。

自分はこの子に傷を癒されてきたのに、私はこの子の傷のことを意識していなかった。

そんな自分に腹が立つ。

 

「どうしたらいいか、教えて欲しい。放っておいて欲しいなら放っておくが、もし何か出来ることがあるなら言って欲しい」

 

気付いてやれたとしても、どうしていいかきっと解らない。

きっと。

人と接することなく生きてきたから。

どうして欲しいか察して動くことは、なかなか容易ではない。

だから、言って欲しい。

 

ラーは少し驚いた顔をして。

そして考える時に、いつも見せる。小首を傾げる仕種をして。

そして否定するように、首を横に振った。

 

「…これは俺の問題ですから、大丈夫です。今までだって一人で対処してきましたから」

 

そう言って。やんわりと拒絶を。

これは意地なのか、それとも本音なのか。もしくは遠慮なのか。判断が出来ない。

しかし迷っているうちに、ラーはそっと。自分の手を、私の手の中から抜き出してしまう。

 

「五月蠅くして御免なさい。もう大分風も治まってきたので、きっともう大丈夫だと思います。

 もしダメだったら…また五月蠅くしちゃうかもしれないですけど…」

 

そう言うラーは。何時ものラーで。

こっちを気遣って、笑顔を浮かべる、いつもの子供で。

いや。きっと子供じゃないのだろう。

この子はこの年齢で、世界との折り合いの付け方を学んでいる。

戦い方を。接し方を。自分の護り方を。

それが、怯え、隠れるという方法だろうとも。それを自分で抱えて、なんとかしようとしている。

 

一人で。

そう、たった一人で。

 

 

 

「…そうか」

 

私は頷く。

そして目の前の、小さな同居人を眺める。

 

「隠れたいのなら、隠れればいい。それで落ち着くのなら。

 だが、もしそれでも怖いのなら。私の部屋に来ても構わない。それで気が紛れるのなら」

 

提案に。ラーはただ。

驚いた顔のまま。

 

夜、あれだけずっと眠らないで、リビングに居続けたのは、少なくとも私の側にいれば安心出来たからだろう。

食事中、普通だったのは私が側にいたからだろう。

誰か。信頼出来る大人が側にいれば。

流石に親の代わりにはなれない。母親の代役が務まるとは思ってはいないが。

それでも。

少しでも。

あんな風に、強迫観念に駆られるように、必死な形相で隠れ場所を探すよりかは。

それで安心出来ると言うならば。

私は他人が側にいることは酷く落ち着かないが。

それを提供出来るのなら。

 

ラーは困惑した顔のまま礼を言い。

私は自室に引き上げた。

起床時間までの僅かな時間。ラーの自室からは再び微かな音が聞こえ、結局私の部屋の扉は開かなかった。

 

 

 

 

あれから随分と時間が経過して。

私達の関係は、変化していく。

 

風が強い日は早く帰る癖がついた。

ラーは未だに窓が風に叩かれたりすると、その身体を緊張に強張らせるが。

それでも、もう一人で夜中かくれんぼをするようなことはなくなった。

 

此処が安全だ、と信じれるようになったこともある。

一人で、震えながらも隠れることなく対処出来ることもある。

それでもダメな時は、そっと私の部屋に訪ねてくる。

 

震えるくらいなら、すぐに此処にこればいいのに、と思うが。これはこの子のプライドなのだろう。

小さな戦士の。

譲れないプライド。

 

私はそれを傷つけないように、最大限注意して。

それがなんでもないことのように、そっとベッドのスペースを小さな体分ずれて空けてやる。

そして眠りにつくまで、些細な会話をして。

少しでもこの子が、風の音から注意を反らせることが出来るように。色々な話をしてやる。

それは時に子供に聞かすには難しいような、そんな話だったりもしたけれど。ラーは文句も言わずに耳を傾ける。

 

時に眠りに落ちたラーが、風の音に反応して目を覚ますことがある。

ベッドの中で小さな体を固くして、闇の中に目を凝らすその姿を。気が付かないふりをしながら。

 

徐々に。徐々に。

距離が縮まっていく。

最初はぎこちなく。一緒に寝ても触れることのなかった互いが。

そのうち、夜中に目を覚ませば。それを紛らわす為に、背中にくっついてくるようになり。

そして腕を貸すようになった。

 

小さな頭を私の腕に乗せて、安心した顔で眠る子供。

まだ時々、夜中に目を覚ますことがあるが。

それでも、すぐに落ちつきを取り戻して眠るようになった。

 

「…何も怖いことなんか、ないさ…」

 

その穏やかな寝顔に。

その眠りを妨げないように注意した声音で。私は囁く。

この小さな温もりを、護り抜こうと。私は思う。

 

 

窓の外は風が強い。

木々が揺れるのを、闇の中眺めながら。

私は世界の何処かに生きているだろう、もう一人の子供を思う。

行方不明のままの、我が子を思う。

 

その子は風に怯えていないだろうか?

誰か、護ってくれる人が近くにいるだろうか?

震えていないだろうか?

こんな風に。穏やかに。眠れているだろうか?

怖い夢を見ていないだろうか?

 

怖い物なんて、何もない。

何処にいようとも。絶対に。

私が護ってみせるから。

 

 

そして、子供の寝息に耳を澄まして。

その規則正しく穏やかな音に、癒され、私も眠りにつく。

 

 

 

怖いことなんて、何一つない。

 

言い聞かす様に。もう一度。

私は胸の中で呟いた。

 

 

 

絶対に。何があろうとも。

私が護って見せるから…………

 

 

 



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