03  ささやかな痛みだけが




何処までも惰性のようにゆるゆると。緩慢に。

ずぶずぶと浸る、微温湯は体温と同じ温度で浸っているとは気付かない。

抜け出そうと踠くにも、身体は水の重さで自由が効かない。

 

ずぶずぶ。ずぶずぶ。ずぶずぶ。ずぶずぶ。

 

こうして張られた湯は僕の正常な思考回路も奪っていく。

何も考えられない。

何もかもどうでも良くなる。

何が大事で、何が必要なのかすら、それすら解らなくなりそうで。

 

その感覚に、背筋が凍る。

 

凍った瞬間、周りの温度の差を感じ、自分が浸っていることに気が付いて。

僕は周囲を見渡す。

 

なんの変哲もない、ただただ、ごく普通の日常。

平和で、穏やかで、何も心配することのない、そんな日常。

悩みなんて、それこそ成績のことや、学校なんていう小さな社会のことだけで事足りる、そんな些細なものばかりで。

眩暈がするほどに凡庸で、何処を切り取っても面白みも何もない。

しかしそれでいて、それこそ誰しもが憧れる不変の形。

 

そんなものが周りに溢れている。

それが僕の日常。

 

 

『何も心配することなどない』

そう言う時に限って、何か心配しなきゃならないことが起こっているんだ。

『お前は勉強に集中していれば良い』

双子の兄弟で、与えられている環境は違うにしろ、お互い集中すべきは勉学である、という年齢に変わりはない。

『済まない。立て込んでいてな。ゆっくり時間を取れないんだ』

何時だってそうでしょう?たまには休めばいいのに。

『恭介』

わかってるよ。わかってる。わかってるさ。大丈夫。

僕は大丈夫だよ。大丈夫。

笑っててあげるから。

いつものように。

そうしたら安心出来るんでしょ?

そうしたら少しは気晴らしになるんでしょ?

なら笑うよ。

大丈夫、て言うよ。

 

この何処までも心地よい安定した日常が、兄の恩恵だということは痛い程理解してる。

だけど兄の犠牲なんて望んでないんだ。

そんなもの望んでないんだ。

 

兄が用意してくれたこの世界は、安全で、穏やかで、セキュリティの行き届いた揺り籠のよう。

文句を言うなんてお門違い。

贅沢過ぎる悩みなのは理解しているけれど、それでも。それでも。

 

時々、ふと、背筋が凍りつくときがある。

 

なんの心配もなく、ただ穏やかに過ごしている中で、時々ちくり、と。

まるで指に刺さった小さな棘のように、ちくり、と。

その痛みは本当にささやかで。

何かに気を取られれば、すぐにも忘れられる程ささやかだけれど。

それでも。

棘はずっと刺さったまま。

事あるごとに、僕に痛みを思い出させる。

 

 

そして僕はその棘が決して抜けないように。

深く、深く、注意深く、指先に押し込んで。

その心臓の鼓動と連動するような痛みを、しっかりと覚えるのだ。

 

 

僕の世界は安全で、穏やかで、とても平和。

だけどこの痛みを忘れるくらいなら、こんな世界。

 

 

 

いらない。

 

 





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