04 繋ぎとめるもの
私を私たらしめている物は何だろう?
それは記憶であったり、経験だったり、それこそ血の繫がりだったりするのだろう。
容姿などいくらでも変えることが可能で。
血の繋がりも、法律上であれば、どうとでもなることで。
記憶や経験なんてものは、それこそ忘れてしまったり、生きて行くうえでどんどん脳によって改竄されていくものだというのに。
そう思えば、『私』というものはなんと脆いものの上に成り立っているのだろうか?
そこまで考えて、随分と哲学めいたことに思考を委ねているな、と苦笑する。
しかしまた、記憶によって、自分が成り立っているのならば、記憶を総て失ってしまったら、そこにあるのは『私』でなく、なんなのだろう。
新しい記憶を植えつけられてしまえば、それは『私』ではなく違う誰かなのだろうか?
それならば。
この身体。
この細胞は、なんとも意味のないものになり果ててしまう。
DNAというもので、個人を特定し、それが『私』の証明になるというのならば、同じDNAを持った片割れ(双子)を生まれもった私は更に地盤が脆弱になる気がする。
それで証明出来るのは、どちらかが存在する、ということにしかならず。
そこに『私』が存在する、という確固たる証明にはならない。
何処まで行っても、何処まで付き詰めても、結局行きつく先はなんともあやふやで中途半端で不安定な地盤。
こんなに中途半端なのなら、いっそ消えてしまっても誰にも気付かれないのではないだろうか?
戸籍をいじくって、学校のデータや出生をいじくってしてしまえば。
関係した人間の記憶を、それこそ洗脳でもして改竄してしまえば。
『私』など、何処にも存在しなくなる。
簡単に。
そうして、何処にもいないことにしてしまえば、私はなんの未練もなく此処から消えることが出来るだろうか?
総てを手放せるだろうか?
考えて、思考が止まった。
全く現実的でない、所詮『たられば』な問題なのに、それでも答えは自由ではなかった。
結局、私は何ひとつ手放すことが出来ないだろう。
檻が開いて、自由に出ていける環境を与えられた所で、出て行くことなどないのだ。
私を失ったとしても。
きっと『私』は何処までも『私』なのだろう。
記憶でもなく、経験でもなく、血の繋がりでもない。
容姿でもなく、記録でもなく、DNAという痕跡でもない。
それらが総てなくなったとしても、『私』は此処にいるのだし。
此処から動けないのだろう。
何が私を縛りつけるのか。
何が私を繋ぎとめているのか。
曖昧で、不安で、脆弱で。
それでも確固としてそこにあり、凛として佇む。
華は誰が見てなかろうとも、そこにあり、咲くのだろう。
それと同じように、私もただそこにあり、生きている。
ただ『生きている』ということが、きっとこの世に繋ぎとめるものなのだろう。
それはなんとも重い責任と、憂鬱さを引率するけれど、それでもこの世に生まれ落ちたのならば誰しもが背負わなければならないのだろう。
我知らず、胸に手をあてて、自分の鼓動を感じてみる。
乱れることなく、一定のリズムを奏で続けるその音は確かに体内から。
そう。
これが私を繋ぎとめるのだ。
この音が止む瞬間まで、私を繋ぎとめるのだ。
その当然な事実は、当然ながら酷く甘美で。
それこそ簡単にこの音を止めてしまう方法は、そこらに転がっていて。
容易に止めることが叶うのに、決して止めたはならない、一種のジレンマを内包して私に乗りかかる。
「繋ぎとめたるは、内包されしこの音。
音を止めるを阻むは、脆弱なる記憶と重厚なる責任。
結果は暗雲と緩慢と諦観に支配されし、砂上の安穏。
なんとも、私らしいものだな」
独り言は、独りごとの名の元に誰にも拾われることなく落ちて。
その何も帰ってくることのない静寂に、私は小さく笑みを零した。
背景素材提供 十五夜 様