優しい魔法


 

「ラー、ラー、ラー!!」

 

真夜中。慌ただしい足音と共に勢いよく扉を開けて。

母は名前を連呼しながら、必死に俺を揺り起こす。

何事か、と。

また何か恐ろしいことがあるのか、と跳び起きるけれど。

目の前には母の笑顔。

そこに一切の緊張はない。

 

「…どうしたの?」

「お誕生日よ、ラー」

 

誕生日。

ああ、そうか。

思い当たって、毎年恒例の母の行動も思い出して、事情が飲み込めて。

やっと緊張していた体から力が抜ける。

 

そんな俺をぎゅっと抱きしめて。

母はとても嬉しそうに。

 

「良かったわ。今年も母さんが一番乗りでお祝いが言えた」と。

 

本当に嬉しそうに祝いの言葉を口にするから。

俺は毎年繰り返される、いつもの言葉を今年も零す。

 

「母さんしかいないんだから、1番も何もないでしょ?」

 

俺の誕生日を祝ってくれるのは、母以外にいない。

父を亡くし、乳母を亡くした今、それは紛れもない事実で。

 

しかし母は俺の言葉に、とんでもない、と吃驚したような顔をしてみせる。

 

「何を言ってるの?

ホラ、お月様もお祝いを言ってる。

ほら、ラー、目を閉じてみて?風さんもお祝いを言ってるわ。

光だって、星だって、太陽だって、皆みんな貴方のお祝いをするんだから。

だから貴方のお祝い一番乗りは結構大変なのよ?」

 

まるで歌うように言葉を紡いで、そして頭を撫でてくれる。

俺がどれだけ祝福されて生まれてきたのかを、言い聞かす様に。

そして、それをほんの少しでも信じられるように。

万感の祈りと、想いを込めて、母は言葉を紡いでくれる。

 

だから言われた通り、目を閉じる。

柔らかい夜の気配と頬を擽る風が気持ち良かった。

虫の声や、風が草を揺らす音、川のせせらぎ。そんな音の全てに耳を澄ます。

 

「聞こえる?ラー。お祝いの言葉が」

「…わかんないけど…綺麗な音だよ」

 

耳に入ってくるのは、決して嫌な音じゃない。

優しく、済んだ音。

決して自分を拒絶していない音。

 

頭を撫でていた母の手が頬を包む。

目を開けると、幸せそうに微笑む顔が目の前にあった。

 

「ああ、もう本当に。貴方みたいに可愛い子、見たことないわ」

 

感極まったように首を振り。

ちゅ、ちゅ、と額や瞼にキスを落とす。

何度も、何度も。

その擽ったさに手を伸ばして体を引きはがそうとするけれど、ぎゅっと抱きしめられて。

母の腕の中で結局俺はされるがまま。

 

「貴方みたいな素敵な子を産めるなんて、私は世界一の幸せ者よ」

 

ちゅっ、と大きく音を立てて、頭のてっぺんに。

その言葉に嘘偽りがないように、本当に母は幸せそうな顔をしているから。

つい。

俺も笑ってしまう。

 

「ほら、世界中が貴方が産まれた特別な日を祝ってる。素敵ね。

世界中、貴方が産まれたことへの祝福に満ち溢れてるのよ?ラー」

 

母の胸の中で、母の匂いを吸い込みながら、世界の音に耳を澄ます。

その時聞こえた音は、母の心臓の音で。

とても優しく、トクントクン、と鳴っていた。

それは間違いなく、俺にとっての世界の音で。

俺にとって、世界とは。母親のことだった。

 

「私をこんなにも幸せにしてくれたんだもの。貴方は本当に天使だわ」

 

再び、キスの雨が再開される。

それを受け止めながら、擽ったさに身をよじり。

笑いながら、シーツに潜り込んだ。

 

母は逃さないようにシーツの上から抱きしめて、まるで溺れさすほどに愛情を注ぎ続ける。

どれだけ愛しているか。

どれだけ自分が幸せか。

 

ソコに嘘はない。

俺は母に、埋もれる程の愛情を毎日注がれているのだ。

 

 

 

しばらく、ベッドの上でじゃれ合って。

母は俺が零した小さな欠伸を見逃さず。

 

「じゃあ、天使ちゃん。パパもきっとお祝いを言いたがってると思うから、そろそろ眠りましょうか?

きっと夢の中で貴方が来るのを今か今か、て待ってるわ」

 

母は楽しそうに笑いながら、シーツの上から優しく撫でてくれる。

 

「私ばっかり貴方を独り占めしてたら、パパ、きっと怒っちゃうわ」

 

俺は記憶にない父を想像しながら瞳を閉じる。

母が何度も話して聞かせてくれた父の姿を思い描くうちに、意識は徐々に薄れていく。

 

 

遠い意識の向こうで、母の優しい「おやすみ」が聞こえた気がした。

 

 

 

 

それは毎年、自分の誕生日に繰り返された恒例のやり取り。

母は「貴方に誰か愛する人が出来るまで、1番にお祝いを言うのは譲らないんだから」と笑っていた。

付け足すように「勿論、その人と1番争いはするわよ?」と悪戯を思いついた少女のような顔で笑いながら言って。

幼い俺は、世界に疎まれた存在であることを理解しながら、まるで母の言葉の魔法に操られるように、幸せな気持ちでその日を迎えていた。

その日だけは、一瞬とはいえまるで世界中に祝福されているかのような錯覚を抱くことが出来た。

 

誕生日。

母が死んでしまってから、その日が特別なのだ、と感じることはなくなったけれど。

それでも、日付の変わる瞬間、未だに母が部屋に入ってくるような気がして。

俺はつい、視線を扉の方へと向けてしまう。

 

『おめでとう、天使ちゃん』

 

もう二度と聴くことの叶わないあの声は、本当に何処までも優しくて美しい歌のようだった。

それは胸の中に暖かい何かと、そしてきゅっとなる小さな痛みを呼び起こす。

 

 

もう二度と叶わないと解っていながらも、あの優しい魔法のような空気を再び感じたくて。

俺は月明かりの下、幼い頃のように目をつむり、風を感じる。

世界に祝われてる、とは流石に思えないけれど。

それでも。

頬を優しく撫でる風は、幼い頃に感じたモノとよく似ていて。

 

俺は少しだけ、優しい気持ちになった。

 

 

 

 

『おめでとう、天使ちゃん』

 

 

 

 

 

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