春待雪

 

 「雪か…」

 

 何気なしに窓の外を見て、そこに舞う白い花に目を奪われた。
 道理で冷えると思った。

 

 暫く景色を眺め、そしてまた、仕事へと集中する。

 

 次に気が付いたのは、降り始めてからもう二時間以上経った後で。
 窓の外はすっかり色を失って。全てを白一色に塗り潰されていた。

 

 「…積もったな」

 

 誰に言うでもなく呟いて。留守番をしている幼い息子を思い出した。

 

 寒さに弱いあの子は、冬の間は殆ど家から出ることはない。
 というより、外出を許可していない。
 一年を通じて、気温の変動の乏しい土地に住まわせてはいるが、用心はするに越したことはない。

 

 あの子は、雪を見たことがないのではないだろうか?

 

 地上で暮らしていた時も、あの小さな村から出たことがないはずだ。あの村の緯度では雪は降るまい。

 

 持って帰ってやったら喜ぶだろうか?

 

 それは容易に想像出来た。
 いつもの、満面の蕩けるような笑顔。

 

 想像して、こっちまでつい笑みを浮かべてしまう。

 

 持って帰ってやろう。

 

 そう決めて、残りの仕事を早々に切り上げようと片付けにかかった。

 

 

 

§§§§§§§§§§§

 

 「ただいま」

 

 扉を開くと、いつものように玄関でラーは満面の笑顔で出迎えてくれる。

 

 「お帰りなさい」

 

 こっちまで微笑んでしまうような、本当に嬉しそうな笑顔。

 

 「ラー、表に出てごらん」

 

 きょとん、と小首を傾げながら。それでも何等疑うことなく表に出ようとするのを「コラ、暖かい格好に着替えなさい」と注意を促す。

 

 

 数分後、もこもこに着膨れたラーは、表に積まれた初めて見る雪をキラキラした瞳で眺めて。
 そっ、と触って。
 その感触を不思議そうに。

 

 「冷たい」

 「凍った雨みたいなものだからな」

 「こんなのが空から降ってくるんですか?」

 

 その様を想像しているのだろう。ラーは空を見上げて、ふふ、と笑った。

 

 「降ってる所も見てみたい」

 

 ぽつり、と呟いて。ちらり、とこっちを見る。
 が、それにはしっかり釘を刺す。

 

 「雨が凍る程の場所に、お前を連れて行けるハズなかろう」

 

 答えはわかっていたのだろう。
 ラーは別段、拗ねた様子も見せずに「そうですね」と返事を返して、再び雪に触れる。

 

 持って帰る時に、すっかり固めてしまった雪は白い氷の塊になってしまっているけれど。
 ラーはまるで壊れ物のように、そっと、そっと触れて。
 その感触を確かめるように。何度も。何度も、その表面を撫でた。

 

 「溶けちゃうんですか?」

 「ここの気温なら、溶けるな」

 

 告げると残念そうに。

 

 「溶けたらどうなるんですか?」

 「春になるのさ」

 

 私の返答に。ラーはほんの少し眉間に皺を寄せて。
 答えの意味を探るように。

 

 そして、納得したのか、まるで花が開くように。その表情を笑顔で満開にする。

 

 冬の間、身動きの取れない子供にとって春は特別なものだ。

 

 「もうすぐですか?」

 「ああ、いい子にしてたらすぐさ」

 

 外気の所為か、頬を鮮やかな青に染めて。
 そして、「はい」と小さな手を差し出してきた。

 

 意味を測りかねて、その差し出された手を暫く見ているとラー自身も少し困ったように。

 

 「指きり」

 

 その面には、ほんの少しの不安の色。

 指きり。

 約束をする時に交わすものだ、と妻が言っていた。
 その微笑ましい記憶と、目の前の子供とが交錯して。私は耐えきれずに、笑みを零した。

 

 「何に対する約束だ?」

 

 小さな指を結んでやりながら。

 

 「いい子にしてます、ていう約束です」

 「悪い子だったことなんてないだろう?」

 

 その指が随分と冷えてきていることに気づいて。
 背中を押して、家の中に入るように促す。

 

 ラーはちょっとだけ名残惜しむように、雪の塊を振り返り、それでも素直に従って。

 

 

 「独りで溶けちゃうのは寂しくないですか?」

 

 子供特有の、なんにでも人格を見出す発言に苦笑しながら。
 これが雪だるまだったり一個の形をしているならわかるが、ただ固めただけの雪の塊にまで心を裂く。
 本当に、これくらいの子供は天使のようなものだ。

 そう、子供が天使のようなものだ、と言ったのも妻だった。

 生まれてすぐの我が子を見ても、正直ぴんとこなかったのだが(勿論愛らしく愛しいものではあったが、天使というより小さなモンスターのようだった)今なら分かる。
 きっとあのまま成長を見守っていたら、ディーノも天使のようだ、と思う時があったのだろう。

 

 ひとつ、溜息をこぼして。
 私は持ち帰った雪の塊を、洗面台に置ける程の大きさに砕く。

 

 「これを持って入ろう。それなら、少しは寂しくないだろう?」


 ラーは嬉しそうに。
 私の手の上の小さな塊を撫でた。


 「良かったね」


 あまりにも無邪気な光景。







 春が来るまでもう少し。
 あと、もう少し。


 だが、私のところには一足早く訪れたらしい。


 穏やかな暖かさに浸りながら、そっと後ろ手に扉を閉めた。
 







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