境界線



その喧嘩はいつも通り、始まった。

原因はなんだったのだろう?肩がぶつかった?目があった?それとも、ただ俺達の誰かに恨みがあった?俺達の誰か、ではなく『外道高校』に喧嘩が売りたかった?総番長である俺に喧嘩を売りたかった?

まぁなんにせよ。それは予定調和の一環で、全く慣れ親しんだ日常だった。

その日一緒にいたのは、いつもの後輩、エッジと岩。そして最近くっついてきている一年生が二人だ。
放課後、何をするわけでもなく、何の話題があるわけでもなく、ただ馬鹿話をしてダラダラと帰る。

その途中の河川敷で急に始まった喧騒は、それこそ何の変哲もないものだった。少し、人数の分が悪いだけで。
それでも、俺とエッジと岩の三人がいれば切り抜けられるくらいの人数。一人当たり、三人も片付ければなんとかなるくらいの。

油断をしていたわけではない。

それだけは言えるのだけど。

 

その喧騒は案の定、俺達の勝ちで形がつこうとしていた。

何度も起き上がっては立ち向かってくる、相手の闘志に感心しながら、俺は久々に根性の入った奴と喧嘩が出来て正直、楽しんでいた。
目の前の相手に集中していた。大人数で喧嘩を売ってきた段階で、期待はしていなかったのだけれど、これは思わぬ収穫で。自然に熱くなっていた。

 

だが。

 

それはエッジの声だった。

 

「おいっ!お前、ヤベェよ!」

 

丁度、俺の相手も崩れ落ち、やっと形がついたところだった。

振り返れば、エッジが一年坊主を後ろから羽交い絞めにしていた。
足元には倒れ伏している喧嘩相手の姿が。

 

そして、イヤな血だまりが広がっていた。

 

それは誰の目にも明らかな『やりすぎ』で。
頭に血が上っている一年生は、エッジを振り切ろうと、そして足元に転がっている相手にまだ執拗に攻撃をしようと息巻いていた。
その拳にはメリケンサックがしっかりと握られていて、そこにはべっとりと。疑いようのない、どす黒い血がこびりついていた。

 

 

 

一回、ひっぱたいて。我に返った一年生は、自分の足元でピクリとも動こうとしない相手を見て蒼白になった。
俺が何か言う前に、エッジがもう一発、殴った。
小気味いい音を響かせて、前につんのめるその足に、相手から流れ出した血液が跳ねる。
頭を打っている可能性も高いので、下手に動かすことも出来ず、とりあえず救急車が到着するまでの間、俺達は安静体制を取らせて、息を確認しつつ何一つ声を発しなかった。
危害を加えた本人だけが、言い訳じみたことをぼそぼそと口の中で呟いていたけれど。そのうち耐えきれなくなったエッジが人睨みして黙らせた。

 

 

 

これは明らかに俺の落ち度だ。
俺がいながらこんなことになってしまった。
こんなことになる前に止めることも出来たはずなのに。

 

救急車で運ばれるのを見送ると、これまた慣れ親しんだ顔馴染みの刑事に補導されて、何度となく通った殺風景な部屋に押し込まれた。
そこでも、一年生は相変わらず動揺したまま。(それはそうだろう。下手をしたら、人殺しなのだから)
まるで引っ越してきたばかりの猫のように、部屋をうろうろと歩きまわっていた。
決して広くもない部屋の中央には、仏頂面でゴマ髭、頭髪の薄くなってきた厳めしい中年のいかにも『デカ』な男が藪睨んで突っ立ている。俺が最初に補導された時は、もう少し頭髪が豊かだった気がするが、連日この近辺の悪ガキどもに頭を悩ませていればこんなことにもなるだろう。

「醍醐、お前がついてながらなんてザマだ?」

刑事(岩本のおやっさん)の言葉に、俺はただ頷くしか出来ない。

「醍醐さんが悪いわけじゃねぇよ。全部こいつが馬鹿なだけじゃん」

エッジがその言葉に咄嗟に噛みつくが、どう言葉を返したところで言われた内容に反駁など出来ようはずもない。
手でエッジを制して、俺は呼吸を整えた。
ただでさえ、緊迫した状況なのに、この環境は更に閉塞感がある。
その狭い部屋の中に、さっきまで殴り合っていた奴らと一緒に閉じ込められているのだ。結構な大人数なうえに、自分の友人を殺したかもしれない奴らと一緒に放り込まれている。

この空気は一種独特。心地よくは、絶対にない。

 

「まぁ、状況はわかった」

岩本のおやっさんが双方の話を聞いた後で、それだけ口にした。
この男のいいところは、一方的に話を聞かないことだ。
俺達馬鹿な糞餓鬼の話もちゃんと聞いてくれる。それは俺達にとってはかなりありがたい部類の大人と言える。
喧嘩は基本的に両成敗だが、理由のある喧嘩に関しては大目に見てくれることもある。

しかし今回に限っては。

どんな状況にしろ。(向こうが売ってきた喧嘩だったとしても)殺すようなことになってしまえば、それはもう目を瞑る、理由を聞くどころではなくなる。

だからこその沈黙。

いつもなら小気味いいほどの憎まれ口の応酬を繰り広げるエッジとおやっさんだったけれど、それでも今日は黙っていた。その痛々しい、重い沈黙。
その沈黙の中、ただ独りだけ。当事者である一年生だけが、誰とも目を合わさないように俯きながらうろうろと、そしてぶつぶつと何かを呟いていた。

 

「じっとしてろよ、鬱陶しい」

エッジの機嫌は時間経過とともにどんどん悪くなっていく。

しかし、それは喧嘩相手である者達も、だ。

自分の友人を殺したかもしれない当事者が、自分達の目の前をうろうろうろうろしているのだ。
場所がここじゃなかったら、もうひと騒動あってもおかしくはない。

「アイツになんかあってみろ、お前ぜってぇ殺すかんな」

ひとりがとうとう、時間と沈黙に耐えきれずに呟いた。

それほど大きな声ではなかったのに、痛いほどの沈黙に慣れていた鼓膜にはそれはいやに大きく響いて聞こえた。
びくり、と震える肩。
そこに背負うことになるかもしれない罪。
俺が側にいながら、俺の後輩にそんな十字架を背負わすことになるかもしれない現実。
口の中がからからに乾いていく。
見かねた岩が、一年生の襟首を掴んで近くにあったパイプ椅子に坐らせた。
怯えきった一年生の手には、相手の血がまだついたままだった。学生服にも、スニーカーにも、相手の生きている証である赤い証明が付いている。
何かに救いを求める様に目を泳がせて。それでいて、誰とも目を合わさずに。
例え目を合わせることが出来たとしても、この場所に救いを与えられる者はおらず、俺は音をたてないようにそっと息を吐き出した。

 

『やりすぎ』の代名詞であるエッジでさえも、こんな事態になったことはない。

確かにキレたら手がつけられない。刃物を振り回す馬鹿ではあるが、喧嘩慣れしている分見極められていた。それに最近は刃物を出すこと自体少なくなってきていたし、安心して見られるようになっていたから。

いや、それは今回のことに対して言えばただの言い訳なのだけれど。

そう、それはただの言い訳に他ならないのだけど。

 

まさに油断だったのだろう。

 

考えてみれば、あまり知らない一年生だ。どんな喧嘩をするのかも知らないのだ。下手をすれば全然使えないかもしれないわけで、その場合状況は全く正反対になっていたことも考えられる。
相手にぼこぼこにやられて、病院で生死の境を彷徨っていた可能性だってあるのだ。
俺が側にいたというのに。

 

知らず奥歯に力が籠り、口の中に鉄の味が広がった。

その苦みは、今の状況を如実に表しているようで。俺はぼんやりと壁に掛けられた時計を眺めながら、時間を戻すことが出来ないだろうか、と馬鹿な現実逃避にも似た思考を持て余していた。

 

 

 

その報告は、俺達が缶詰にされて三時間も経過したくらいに届けられた。

おやっさんに耳打ちで伝えられた情報は、聞こえなくてもその表情で充分に伝わった。ホッとしたような、ほんの少し笑ったようにも見えるその表情で、一気に力が抜けるようだった。

 

「良かったな、命に別条はないってよ。変な後遺症も残らねぇってさ」

おやっさんに肩を叩かれた一年生は、そのままパイプ椅子から転げ落ちるような勢いで立ち上がり、その顔をぐしゃぐしゃにして泣いた。

当然だが不安だったのだろう。

喧嘩相手も友人の安否を聞いて、やっと気を許したのか口々に軽口をたたき合う。

空気が少しずついつもの日常に戻っていくのを感じながら、俺もやっと。

 

笑った。

 

 

いつも通りのおやっさんとエッジのやり取りを眺めながら(なんといってもエッジとおやっさんの関係は父親の代から続いている。父親も母親もよく面倒をかけたらしい)俺はふと視線を感じて振り返る。

そこには俺の相手をしていた男が立っていて、待っている間についでに治療を受けた怪我が派手に色を添えていた。

「男前にしてもらったよ」

「ああ。男っぷりが上がったな」

軽口を叩いて、俺達は軽く拳を空中で合わせた。
次会う時も、きっと今日のように拳で殴り合うのだろう。きっと。
それが俺達の日常だから。

相手の名前を聞くとぶっきらぼうに「菊池だよ」と返ってくる。そして口惜しそうに、それでいて何処か恥ずかしそうに「これでも結構名前売れてんだぜ?」と続けた。

 

警察を出て、暫くして。どちらともなく、煙草に火をつける。
エッジはおやっさんの悪口を言いながら歩いていて、それに賛同する声がさっきまで喧嘩相手だった奴らから漏れる。こうしていると喧嘩相手ではなく、仲間のように見える。
『警察』という共通の敵を見付けた今は、きっと『子供VS大人』という喧嘩の同志なのだろう。
俺はその心地よい空気に笑みを零しながら、空を見上げた。
紫煙のくゆる空は星も霞んで見えない。
俺の横で、エッジ達のやりとりを眺めていた菊池も俺と同じ心境なのか、その顔に笑みを浮かべていた。

 

今日の騒動の張本人は、さっきまでみっともないくらい泣いていたのに、大分調子を取り戻したのか冗談を口にしている。その顔は泣いた所為で酷く浮腫んでいたけれど。
俺が言うよりも先にエッジがちゃんと「てめぇ、反省しろよ馬鹿」と釘を刺す。それに賛同するように、周りがやんややんや言う。

 

戻った日常。

だけど反省を怠るわけにいかない今日。

 

殺してしまうかもしれないという恐怖。

思い出すだけで、背筋がぞっとする。

死ぬかもしれないと思ったことは何度かある。それも十分、背筋の冷える事柄ではあったけど、『殺される』と『殺す』は根源的に全く別物で、それによって生み出される恐怖も全く別のものだ。
しかし『殺してしまう』ということは、本当に紙一重の出来ごとなのだろう。
きっと簡単に飛び越してしまう境界線なのだ。

日常と、非日常の境界線は本当に曖昧で、それはふいに日常の中に紛れ込んで混乱と恐怖に陥れるのだ。

 

殺人者になる。

毎日、見ない日はない殺人のニュース。それからもわかるように、その境界線は本当に些細なのだろう。
今回、俺達がその境界線を踏み越えなかったのはただ幸運に過ぎない。
きっとサイコロを振って奇数が出るのと同じくらいの。そんなどうとでも変容が効くような、そんな不安定な結果なのだろう。
一歩。いや、ほんの半歩なのかもしれない。
それだけ違えば変わっていたかもしれない現状なのだ。


だからこそ、俺達は地面をきっちり踏みしめていなければならない。


決して踏み外さないように。決して境界線を踏み越えないように。

 

「ぞっとしないな…」

俺の呟きは、仲間の喧騒に紛れて誰にも拾われることはなく、消えていく。

ソレで良かった。

仲間の中で、俺だけでもそれが解っているのならば周りを踏み止ませることは可能だから。
総番長として、俺がやらなければならない役割はこうゆうことだろう。


きっと。

 

そう、それこそが。

『総番長』として。

いや、ほんの少しでも長く生きている『先輩』の役目なのだと思う。

 

 

 

そうして、長い一日が終わった。

 





背景素材提供 piece