秘密の扉












(一)

 

 僕の家には地下室があった。

 けれど地下に降りる扉には、父が大仰過ぎるといっても過言でないほどに施錠をしていたので、僕はそこに入ったことはない。ただ、物心付いた頃には、とうに気の触れてしまっていた母が父の目を盗んでは扉の前で蹲り、ただひたすら終わらない何かを求めていたのを克明に覚えている。
 父が何度も母を部屋に連れ戻し、その度に母の口から漏れる悲鳴がベッドの中で眠っている僕の耳にも届いた。けれどソレを知らないふりをするのが、父との暗黙の約束だった。

 母が引っ掻く、地下室への扉。

 かりり、かりりと。

 そしてその爪痕は扉に時と共にしっかり鮮明に刻まれて、母が亡くなって三年が経つと言うのにソレを薄れさせてはくれなかった。

 



  真夏日。

 校外学習と称して行われた散策の途中、僕は酷い眩暈に襲われた。
 視界が白くなり、狭まっていく。

 「恭介?顔色悪いぞ」

 親友の声が次第に小さくなって、僕はその場に蹲み込んだ。
 情けない。貧血だ。

 「大丈夫だよ、伐。じっとしてれば・・・・ああ、向こうの木陰で休ませてもらうから。先生にそう・・・・いっといて」

 駆け寄ってくる気配を手で制して、僕はふらつく身体をなんとか持ち上げる。
 太陽はそんな僕を嘲笑うかのように、ただ照りつけ、焼く。

 

 

 

  最初は心配し、顔を覗きに来たクラスメートも次第に声を掛けてこなくなり、僕は遠くなった声の向こうに瞳を這わせる。
 涼しい木陰で体力は次第に戻っており、視界もはっきりしてきていた。けれど、今度は穏やか過ぎて睡魔が襲ってくる。
  僕は眠気を噛み殺しながら、欠伸を一つだけ浮かべて再び楽しそうなクラスメートの声に耳をすました。


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 聞きなれない、声。
 クラスメートがいる方とは違う方向から、確かにその声は聞こえていた。

 

  My mother has killed me
    My father is eating me
    My brothers and sisters sit under the table
    picking up my bones
    And they bury them under the cold marble stones

  

 マザーグースだ。

 僕は声のする方の茂みを掻き分け、まだふらつく身体を進ませた。
 何故そっちに進んだのかは分からない。 

 けれど僕はその歌声に引き寄せられるように、只ふらふらと足をすすめていた。

 

 茂みが開け、視界に入ってきたのは廃屋と見間違いそうなほど、朽ち果ててしまった教会。
 割れてしまったステンドグラスと、元が何色であったかすら分からない壁色、屋根の上の十字架は長い年月の雨風のせいで錆び、曲がってしまっている。
 そしてその年月を物語るかのように、教会そのものを絞め殺そうとしているかのように幾重にも巻きついた蔦植物が、夏の日差しに青々とした生命を見せつけていた。

 そんな教会の扉が少しだけ開いていて、そこから白い爪先が覗いている。時々歌のフレーズに合わせて動くその爪先は、まるで自分を誘っているかのようだ。

 

  「こんにちわ」

 熱い日差しに当てられて、喉が酷く乾いていた。何だか粘つくような感覚が酷く不快だったけれど、なんとかソレだけを口にした。
 繰り返し流れていた歌が止まって、爪先もソレと同時にぴたりと動きを止めてしまう。
 驚かせてしまったかもしれない。
 その自分の配慮の無さに、舌打ちする。

 「ごめんなさい、驚かせるつもりはなかったんですが・・・・」

 次の瞬間、驚かされたのは僕の方だった。
 否、向こうも驚いたのかも知れない。
 ただ態度には表さなかっただけで。
 不意に開かれた扉の向こう、床に直接座り込んでこっちを見つめる二つの瞳。夏の日差しを眩しいほどに吸収、反射する白い髪、そしてその、顔。

 よく知っている、その顔。


 「・・・・僕と、同じ顔・・・・」


 僕は夢でも見ているのだろうか?これが白昼夢と言うやつか?貧血で頭がぼうっとしているせいか?

 そしてその僕と同じ顔は、唇の端を引きつるように上げて、底冷えするような笑みを浮かべて見せた。全身が総毛だつような感覚に、無意識に喉の奥で悲鳴が零れた。

 「私は雹、お前の名前は?」

 僕から一瞬も瞳を反らすことなく、僕と同じ顔をしたソレは言葉を紡いだ。歌声同様、張り詰めるような声だった。
 名前を聞かれただけなのに、ソレは誰も解いたことの無い難解な質問のようで頭は真っ白になってしまったまま、答えることが出来ない。
 僕はその場に立ち尽くしたまま、彼同様瞳を反らすこともできずになんとか質問に答えようと、呼吸を繰り返していた。けれど吐き出す息と共に、声は出ることはなく、ただ間抜けにも口を開閉している。

 彼は瞳をうっすらと細めて、更に笑顔を深めるとゆっくりとした動作で起き上がった。けれど、緩慢なわけではなく、その動作一瞬一瞬がとても優雅で、僕は目を見張る。

 「怖がらなくとも良い」

  服に付いた埃を手で払いながら、彼は言う。
 その言葉は、何故か酷く安心させる響きを持っていた。さっきまであんなに恐怖を感じていたというのに、その声一つで自分の中の何かが酷く落ち着きを取り戻していく。そのことが逆に不安を昂らせた。
 彼はまるで水の上を歩くかのような、そんな足取りでゆっくりと確実に僕の方へと近付いてくる。頭の中をかき回して真っ白にするようなそんな恐怖よりも、裸足の彼の白い足が直に地面に付くのが視界の端に写ることが何とも場違いなほどに気になってしまう。汚れてしまうことに対して、焦燥感が募っていくのだ。

 「名前は?」

 ついに目と鼻の先程の距離まで近付いて、彼はもう一度問う。
 彼から立ち上る花の香りのような、甘い香りが鼻孔をくすぐって通り抜けると、今までの恐怖も何もかもが綺麗に払拭されていた。

 「・・・・恭介・・・・」

 彼は小さく笑みを浮かべてゆっくりと僕の方へ手を伸ばす。僕はその手をとり、その病的なまでに白い肌に眩暈を覚えながら、手の甲に唇を落とした。
 彼は満足そうに北叟笑んで、ゆっくりと僕の額に唇を付けた。



 ソレは母親が子供にするような、そんな穏やかで愛情の籠ったキスだった。

 

(二)

  

  My mother has killed me
    My father is eating me・・・・・・』

 彼の歌声。

 決して趣味がよいとは言えないマザーグースのその曲を、彼はずっと口づさむ。
 そして彼が歌うと、ソレはまるで賛美歌のようにさえ聞こえる。

 「好きなの?」

 彼の膝の上に頭を乗せながら、その唇の動きを目で追う。
 彼がちらりと少しだけ視線を下げて、僕の瞳を覗き込んだ。 

 「別に・・・・ただこのどうしようもないのが気に入っている」

 彼はそう呟くと、再び囁くようにそのフレーズを繰り返す。
 僕の短い髪を撫でる、その繊細な指の動きが何とも気持ち良くて、まるで母親に甘える子供のように僕はソレを与えられていた。

 けれどそれらが急にぴたりと止んで、彼は僕の身体を膝の上から退けてしまう。

 「日没だ。恭介そろそろ帰れ」

 そう、これが彼と僕との約束事。

 どれだけ楽しくとも、何があろうとも、日没と同時に彼は僕を家に帰らせる。まだ一緒にいたいと言っても、誰も怒る人間などいないと言っても、多少遅くなろうと大丈夫だと言ってみても、彼は首を縦には振らなかった。

 「ぐずぐずするな、帰れ」

 僕を立たせて、彼は厳しい口調でそう言う。
 さっきまでの穏やかさは夢であったような錯覚さえ覚える厳しさで。

 「明日も来ていい?」

 だから僕は彼の顔を覗き込みながら、毎回同じことを聞く。
 そして彼は毎回何も言わないで、頷いて見せる。
 ソレがないと不安でしょうがない。明日になって来てみれば、彼がいなくなっていたと言うことは十分考えられる。 

  だから、僕は彼に問いてしまう。

 そうしないと明日が来ることを信じられない子供のように。

 

  僕が背を向けると、彼は何事もなかったかのようにまた歌を口づさみ始める。
 その声が聞こえなくなるのが何だか酷く怖くて、僕自身その続きを口づさんだ。

 

  My mother has killed me
    My father is eating me
    My brothers and sisters sit under the table
    picking up my bones
    And they bury them under the cold marble stones

 







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