(三)

 

  自分の部屋に戻る途中、目に入る地下への扉。
 何時もは見てみないふりをしているのだけれど、一体僕はいつまでソレを繰り返すのだろう。
 父が母のことに触れて欲しくないのは、態度から分かる。
 父が母のことを愛していたのも、やはり態度から分かる。

 けれど母は父のことを愛していたのだろうか?

 気がふれてしまっても、父のことを母は愛していたのだろうか?

 扉に付けられた、まるで治らない傷口のように抉られた、母の爪跡。
 目を奪われている自分に気がついて、慌てて目を反らす。
 顔をあげれば階段の踊り場に、母の穏やかな笑顔を讃えた肖像画が掛けられているのが目に入る。

 自分の記憶の中、そんな風に母が微笑んだことはなかったが、自分とよく似た、その笑顔に少しだけほっとした。

 そして疑問を抱く。

 何故母は気がふれてしまったのだろう?何故彼はあんなにも僕と似ているのだろう?ソレはつまり、母と似ていると言うことだ。

 こうは考えられないだろうか?母は何者かに暴行され、彼を身籠った。そして秘密裏に出産、けれどソレに耐え切れなかった。または母が不義を働いた。そして彼が生まれた。

 首を振って思考を止める。
 どれもこれも推測の域を出ない。
 そんなもので母の名誉を傷つけたくはない。
 そして父を困らせたくはない。
 母が死んでしまってから、仕事に打ち込むことでソレから逃れようとしている父の姿は、見ている方が痛くなるほどだった。
 これ以上の心労など、かける必要はない。

 僕は母の肖像画に微笑み返して、そのまま残りの階段も昇り切った。

 

(四)

 

 知り合って随分と経ち、僕は父が帰らないことを理由に、彼を家に招待した。友人を家に呼ぶのは、母が気がふれていたこともあって初めてのことだった。
 彼は何時も通り、廃屋のような教会で歌っていた。
 そして僕がソレを告げると、何だか不思議な表情を浮かべたあと笑顔を見せた。
 僕の手をとるその仕種は、酷く優雅で眩暈さえしそうになる。

 「案内してくれ」

 彼の瞳の奥の冷たい輝きすら、見逃してしまうがほどに。 

 


 

 

 「母親は?」

 彼は母の肖像画の前に立ち、ソレを見上げながら口を開いた。
 そうして立っている姿を見ると、僕よりも彼の方が母親の面影を色濃く持っているような気がする。ソレは髪の長さだったり、ほんの些細な仕種だったりしたけれど。

 「死んだよ、三年前に」

 「死んだ・・・・?それは済まないことを聞いたな」

 彼の言葉に肩を竦める。

 「僕は母親似なの。貴方もうちの母とよく似てる」

 その場所を動こうとしない彼に、お茶を手渡しながら僕も母を見上げる。変わらない微笑みはそのままに、これが彼女の求めていた終わりのないものの正体なのかもしれないと、何となく思ったりした。

 「何故?」

 「?・・・・何が?」

 「何故、母君はお亡くなりに?」

 彼は手渡したカップに口を付けることなく、手の中で遊びながら僕を見つめている。

 何故? 

  母の死因。

 気が触れた母は、そのうち食事をとらなくなってしまった。医者がいくら手を尽くしても、母は口にしなかった。むりやり栄養を注入しても、やはりどんどん衰弱していく。痩せ細り、しかし美しさを失うことなく、彼女は眠りに付いた。

 「うちの母はね・・・・頭、おかしくなっちゃってて・・・・それが死因かな」

 どう言えば上手く言えるのか分からない。

 彼はそんな僕をぼんやりと眺めてから、また母の肖像画に見入っていた。

 

 「貴方は母を知ってるの?」

 「知ってる」

 あまりにもずっと見ているので、痺れを切らして問いてみた。返ってきた言葉は簡潔過ぎて、一瞬理解に戸惑った。

 「会ったことはないけれど」

 一度考えて打ち消した、あの推測達が頭を過ぎった。僕達は異父兄弟なのかもしれない。兄弟と言う響きがどこか甘美で、僕は吸い寄せられるように彼の横顔を見つめる。

 「母は・・・・貴方の母でもある?」

 父にぶつけることの出来なかった質問。彼の瞳が肖像画から離されて僕の方を向く。その瞳の奥に僕が知り得なかった真実が隠されているような気がして、僕はただ黙ってその瞳を見つめていた。

 けれど、彼の唇から零れ落ちたのは真実でも何でもなく、何時もの、あの歌。

 

  My mother has killed me
    My father is eating me
    My brothers and sisters sit under the table
    picking up my bones
    And they bury them under the cold marble stones

 







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