(五)

      

 奇妙な静寂を破ったのは、彼が手から落としたカップの割れる音。

 唇から落ちていた旋律はぴたりと止んで、彼の瞳は何も写さない。

 ただ真っ直に見据えられているのは、玄関の方。

 僕はその視線にそって、ゆっくりと顔を動かした。

 そこに立っているのが自分の父親だと頭のどこかで認識している。そして今日は帰らないはずではなかっただろうか、とぼんやりそんなことを考えていた。

 「父さん、お帰り。どうしたのさ?今日は帰らないって言ってなかったっけ?」

 父の顔色は、真っ青で遠目からでも具合が悪いことが分かった。

 「どうしたのさ?体調でも崩したの?」

 僕は階段の踊り場から父の方へと駆け寄ろうと、足に力を込めた。

 けれど僕の身体が父の方へと動いたのは、僕の意志ではなく、突如吹き荒れた突風だった。
 家中の窓が激しく鳴り、部屋の中を風が吹き荒れる。僕の身体は煽られて階段を転がり落ちた。

 衝撃で眼鏡のレンズに片方、罅が入る。

 

  My mother has killed me
    My father is eating me
    My brothers and sisters sit under the table
    picking up my bones
    And they bury them under the cold marble stones

 

 歌声に、悪くなった視界を上げる。

 彼は階段の手すりに腰かけて、父から目を離すことなく歌っていた。風によって煽られた髪が、彼を彩っている。

 彼は笑っていた。

 全てを見下ろすような、そんな冷酷さを感じさせる嘲笑。

 その全てが酷く、美しい。

 転がり落ちたときに打ちつけた身体が、悲鳴を上げるけれどそんなことに構わず僕は上体を起こした。ふと、気配で顔を向ければ父がこっちに駆け寄ってくる所だった。

  「大丈夫か、恭介?」

 可笑しいほど取り乱してるその姿に、いや本来ならば取り乱しても可笑しくなどないのだろうが、僕は違和感を感じていた。



  そう、父は酷く怯えている。

 


 「昔々、美しい女がおりました」

 彼の凛とした声が、頭上から響く。

 顔を上げれば階段を一歩一歩、ゆっくりと降りて近付いてきていた。そしてその歩調に合わせるように、父が僕の身体を掴みながら後ろに後退していく。


 「そしてその女に懸想する男がおりました。けれど、彼女にはもうとうの昔に心に決めた男がいたのです」


 僕は彼と父の間に挟まれるようにしながら、彼の言葉に耳を澄ましていた。まるで御伽話のように語られるソレは、美しい旋律にも似ている。


 「男は妬みました。想われている想い人に、そして自分のものにならない女に」


 彼の瞳が茶色から赤に、そして金色に変わっていくのを僕は半ば放心しながら見ていた。


 「そして決めたのです。この二人を引き離してやろう、と」


 彼は僕の前で足をぴたりと止めて、静かに頷いた。

 合わさるれ瞳と瞳。
 その瞳の奥には、なぜか悲しみと哀れみが同居しているように見えた。


 「男は二人を食事に招待し、家に招き入れました。そして彼の頭を背後から銃で吹き飛ばした・・・・そう、その猟銃で」


 まるでこれから舞でも始めるかのように、優雅に手を伸ばし彼はその汚れを知らない白い指先で扉の方に指さした。そこに父の猟銃が掛けてあることは、振り向かなくも僕はもちろん知っていて、ただ突きつけられた真実を働かない馬鹿になってしまったような頭で必死に飲み込もうとしていた。


 「目の前で愛する男を殺され、暴れる女を押さえつけ暴行すると、男は殺した男の死体を地下室に放り捨てました。そしてきっちりと施錠しました。男は自分の野望を達成したのです。・・・・そう、二人を引き離し、彼女を自分のものにすることに成功したのですから」


 彼は僕から視線を外すと、背後にいる父を睨め付ける。


 「気が触れてしまっても、彼女は十分美しかった。唯一の例外は彼女が身籠ってしまっていたこと。
  自分の子供か、あの男の子供か全く分からない。

  そして彼女は二人の赤子を産み落としました。

 そう、恭介と・・・・私を」



 ああやはり、僕と彼は血の繋がりがあったのだ。

 嚥下できない事実ばかり突きつけられる中、僕はそれだけ飲み込んで何故か安堵すら覚える。しかし彼はそんな僕を嘲笑うかのように、矢継ぎ早に絶望をその美しい唇から零れ落としていく。


 「気の触れてしまった彼女は生まれてすぐの私を絞め殺し、それを見た男は、その子供が自分の子供だと確信した。憎んでいる自分の子供だからこそ、殺すのだと。

 そして私を彼女の愛した男と同じ、地下室へと放り捨てた・・・・自分の全ての罪を抹消するように・・・・」


 「そうだ・・・・あの子供は死んでいた・・・・」


 父の声。

 自分の保身のために掠れたその声に、憐憫にも似た情を抱く。


 「あの地下室で私は父と出会った。頭を撃ち抜かれた、父と出会った。父は私の死に絶えた身体に牙をたてて、私を生き返らせた。そして私を食むことで、父も身体を取り戻していった。

 ・・・・そう、気の病んだ母は賢い人だった。自分の残された唯一の方法で、愛する男と子供、両方とも助けて見せた。殺すこと、手放すことで、全て守り通して見せた。

 そして恭介も・・・・自分の子供だと思っているのなら、男は恭介に危害を加えることはないのだから・・・・本当に賢い人だった」


 目を細め、肖像画を仰ぎ見る。

 そして振り返った彼が口端を上げて微笑みを形づくる。

 そこには確かに、犬歯と言うには尖りすぎた、牙と呼ぶのが相応しい歯が覗いている。僕の頭に白い靄がかかって何も認識できない。

 一体今何が起こっていると言うのだろう?


 

  My mother has killed me
    My father is eating me
    My brothers and sisters sit under the table
    picking up my bones
    And they bury them under the cold marble stones

 


 ああ、そうか。

 彼が歌っていたフレーズが頭の中を回る。

 彼はずっと僕に真実を語ってくれていたのだ。

 お母さんが僕を殺して、お父さんが僕を食べた。兄弟達はテーブルの下で僕の骨を拾って、冷たい石のお墓に埋める・・・・

 そう、全てそうゆうことだったのだ。

 母が彼を殺し、父がそれを食し、僕は彼と母のおかげで生き延び、彼は父と同じ地下室にいた・・・・そう、そうゆうことだったのだ。

 

 僕の声にならない悲鳴を上げた。





 気が狂ってしまいそうだ。

 

(六)

   

  父の首が転がっている。

 それは一瞥、奇怪なオブジェのように見えた。夥しい赤と、粘り着くような血臭さえなければ、ただの悪趣味な玩具と思っただろう。

 まだ身体が酷く震えている。

  そんな僕を優しく腕に抱きながら、彼は掌に付いた父の返り血を丹念に舐め取っていた。

 母の愛した男。母が呼んでいたのは終わりのない〈無限〉ではなく、人の名前〈霧幻〉だったと知った。

 そう、彼女はずっと父の名前を呼んでいたのだ。


 「呼んでる・・・・」


 急に彼の口から零れた言葉に、身体を起こす。

 「何・・・・が?」

 「父が」

 彼は僕の身体を静かに手放して、さみしげに微笑んだ。

 「恭介、私はいかなければならない。お前は見たところ父の血よりも母の血、人間の血の方が濃いみたいだ。敢て、闇と生きる必要はない。

 だから、光と共に表で生き抜け。私は父と共に、闇に生きる」

 頭の中で拒絶の言葉が、駆け抜けていく。けれど口にすることは出来ないで、言葉を飲み込んだ。

 「もし、お前が闇の血に目覚めたとすれば、絶対に迎えに来るよ」

 ソレは告白にも似た、甘い響き。



 僕はソレを信じて頷くしかなかった。

 

 

 

 部屋に立ちこめる霧と、微かに見える影。それが彼の身体を包んで、彼はむしろうっとりと視線を泳がせる。それが僕が見た父の姿で、彼はその影に抱かれながら最後の瞬間僕の方を見つめた。

 空中で絡まる視線の糸。

 それがほどけることが身を切られるほど辛くて、僕は目を離せずにいた。

 



  部屋の霧が晴れると同時に、彼の姿はそこにはなくて。


 僕はやっと、泣いた。




 僕を育てた父の噎せ返るような血の匂いの中、僕は声が枯れるまで、泣いた。