(二)

  

疲れたのか、帰ってすぐにラーは自室に。

ダイニングの机の上には、買ってきた食材と、貰った菓子と玩具が散乱している。

 

片付けるのは明日でいいか…

 

そもそも食料を管理しているのは、今ではすっかりあの子で。

正直、自分では何処に直していいのか解らないモノすらあるのだから。
実質、あの子が寝てしまったのなら『明日でいい』も何も、それしか選択肢はないのだが。

簡単に仕分けだけして。

私は暖炉の前のロッキングチェアに腰掛けて、読みかけだった書物を広げた。

 

 

薪の爆ぜる音と。

静かな時間。

一日の終りの、心地よい疲労感。

 

満足していた。

満ち足りていた。

何も問題はない、と。

子供も久々の外出で楽しんだ、と。

 

 

しかし。

 

 

空気が動いた。

暖炉の炎が微かに揺れる。

それは、誰かが扉を開閉した為に起こる空気の動きで。

結界が張られているので誰かが侵入してくることはない。あったとしても、それならばこんなに静かなはずがない。

そしてこの家にいるのは、私と。子供しかいない。

 

考えられる答えは。

ラーが、こんな夜更けに外へと出て行ったということ。

 

私に何も言わずに。

 

それは正直。あまり正常とは言えない。

もしかすると、私が留守の間に夜間の散歩をしているのかもしれないが。それでも。

流石に、放っておくことは出来なかった。

 

読んでいた本をロッキングチェアの上に放り棄てて、私は子供の後を追うべく外に向かった

 

 

§§§§§§§§§§§§§§§

 

 

魔界の夜は深い。

その闇は簡単に総てを飲み込んで、塗り潰す。

夜目が効くと言っても限界がある為、視力に頼るのは心許ないので、気配に意識を集中して進む。

 

戦闘訓練も受けていない幼い子供。

すぐ気配を見付けられると思ったが、コレが思った以上に難儀だった。

考えてみれば、ラーはずっと潜むような生活を余技なくされてきたのだ。

潜むのは御手のモノなのだろう。

小動物のように息を潜め、身じろぎせず、危険が通り過ぎるのを待つ。

そう。

そうやって、生きてきたのだ。

 

30分程捜索したが埒が明かず、私は闇に声を投げかけることにした。

 

「ラー?」

 

返ってくるのは深い闇。

静寂。

 

それでも何度となく、諦めることなく呼びかけ続ければ。

とうとう。

 

動く気配が闇の向こうで。

 

そして葉が擦れる音。

 

枝が軋む。

 

振り仰げば。

 

そこにラーがいた。

 

 

§§§§§§§§§§§§§§§

 

 

「…ラー…どうした?」

 

木の枝の上で。ラーはちょこんと座ったまま。

私を見降ろしている。

 

闇の中でも、その瞳が碧に光るのが見える気がした。

 

抱きとめる様に空中に腕を伸ばすが、子供が降りてくる気配はない。

 

「ラー?」

 

もう一度、名前を呼んで。

返ってこない沈黙に、不安になる。

 

暫く。

闇の中、互いに身じろぎもせずに。

見えていないながらも、空中で視線が交錯しているのは何故か解った。

 

 

 

『 trick or treat 』

 

 

§§§§§§§§§§§§§§§

 

 

長い沈黙の果てに零れた言葉は馬鹿馬鹿しくて。

聞き間違いかと耳を疑った。

 

そこには無邪気な子供のソレは微塵もなかった。

先程、市場で嫌という程飛び交っていた子供達の楽しそうな声とは程遠い、闇に呑みこまれそうな声。

しかし、それはまさしくラーの声だった。

 

「…ラー?」

 

何度目かの呼びかけに。

やっと動く気配がした。

 

「まだハロウィンがやりたかったのか?」

 

まだ地上で遊びたかったのだろうか?

この子が唯一、子供らしく振る舞うことを許される日だ。それは当然かもしれない。

もっと遊ばせてやれば良かったのか。

そんなことを考えていると、くぐもったような声が頭上から漏れた。

 

「ラー?」

 

泣いているのかもしれない、と。気付いた。

 

何か泣くようなことがあっただろうか、と記憶を探るが思い当たらず。

ただ、戸惑う。

うろたえる。

 

どうしてやることも出来ずに、ただ、頭上の。何処までも広がる深い闇の中に目を凝らして。

 

手探りでラーの登っているだろう樹を探って。

太さを確認して、自分の体重を支えることが出来そうなのを確認する。

 

そして、そのまま一気に身体を持ち上げた。

 

 

急に動いた私の気配に、逃げようと気配が動く。

それを逃さないように手を伸ばして、触れた暖かい体温を感じる間もないまま引き寄せた。

年齢の割に小柄で細い、折れてしまいそうな身体はすっぽりと腕の中に収まって。

暴れそうになるのを力尽くで抑え込んで。

 

そしてそのまま暫く。

ラーが落ち着くまでそのまま。

 

 

 

樹の幹に背中を預けて、じっと。じっと。

 

 

 

 

そのうち、疲れてきたのかラーが腕の中で動かなくなる。

荒かった呼吸が静かになってくる。

身体から力が抜けて、だらりと凭れかかってくる。

 

 

「…ラー?」

「…ハロウィン…初めて参加しました…」

 

 

ぽつりと落とされた言葉は、少し意外だった。

この子が安全に外出出来る唯一の機会と言っても過言じゃない日だろう。

狭い村とはいえ、紛れこむことは出来る筈だ。

そんな日を逃すとは思えない。

私の怪訝さを感じたのか、きゅっ、とラーの手が私の服を掴んだ。

 

 

 

「ハロウィンは化け物やおばけの姿に仮装するんです」

 

 

 

服を握る手の力が。

強く。つよくなる。

 

 

 

「俺と同じ肌の色に『仮装』した子供は、それは『化け物』の仮装なんです」

 

 

 

言葉が。

詰まった。

 

 

 

 

「…だから母は決して俺をハロウィンに参加させなかったんです…」

 

 

 

 

 

視界が歪んだ気がした。

 

 

§§§§§§§§§§§§§§§

 

 

一度だけ。

一度だけ母が俺に参加したいかどうか聞いたことがあった。

 

『天使ちゃん。ベビーパンサーになってみたくない?』

 

母は決して。

そのままの姿で外に出そうとはしなかった。

あくまで、ハロウィンに参加するなら何か別のものに『仮装』させようとした。

 

『縫い目をいっぱいつけてフランケンシュタインもきっと可愛いわよ?』

 

楽しそうに提案する母の顔を見ながら。

それでもそこに不安の色を見付けてしまった。

 

きっと外にいるであろう。

自分と同じ肌の色に仮装している子供と出会うことに。

自分がモンスターと呼ばれる側の存在だと言うことに。

 

そんなことは当の昔に知っていたけれど。

それでも面と向かって、悪気も悪意もなく、何処までも無邪気に現実を突き付けられるのは残酷で。

 

俺は母の腕の中で、『行かない』と言ったのだ。

 

楽しいのかもしれない。

お菓子を貰い歩くのはきっと楽しいだろう。

 

外から楽しそうな『trick or treat?』

 

しかし、それは何処までも残酷な。

残酷な日。

 

母は俺を抱いたまま。

背中をそっと撫でて『そうね、貴方は天使にしかなれないからね』と。

 

 

優しく、優しく言い聞かせた。

 

 

俺が化け物と呼ばれる存在ではないことを。

 

優しく。

 

穏やかに。

 

愛情を込めて。

 

何度も何度も。何度も何度も。

 

 

朝から晩まで連日言い続けた。

 

 

§§§§§§§§§§§§§§§

 

 

そして今日。

全く忘れ去っていた。

魔界に来て随分と経って、時間間隔はなくなっていた。

 

 

 

今日がハロウィンだなんて、そんなことすっかり忘れてしまっていた。

 

 

 

心の準備も何もなく。

現実に放り出された。

 

 

勿論養父が優しさ故にしてくれたことは解っている。

それが理解出来ないわけではない。

 

 

しかしそれでも。

 

現実は。

 

 

あれだけ忌み嫌われた外見が。

肌の色が。

『上手く化けられた』と褒められる。

なんの加工もしていない、そのままの自分が。

『化け物』の『仮装』だと認識される。

 

駆けてゆく、自分と同じ肌の色をした子供。

優しい大人。

褒められること。

撫でられること。

 

『 trick or treat? 』

 

化け物がやってきて、脅しの声をあげる。

 

 

 

誰も自分に奇異の目を向けない。

誰も自分を罵倒しない。

石を投げる者もいない。

水をかけられたりもしない。

誰も自分を傷つけない。

 

誰もが優しい。

 

穏やかで。

楽しくて。

優しくて。

 

 

そしてとても残酷な…

 

 

§§§§§§§§§§§§§§§

 

 

楽しかったのだ。

とても楽しかったのだ。

 

あんなにも人がいっぱいいる中で。

あんな風に、誰にも何を言われることなくいれるなんて思ってなかった。

みんなが優しかった。

貰ったお菓子は美味しかった。

 

どれも、とてもキラキラして。

キラキラ、キラキラして。

 

わくわくして。

ドキドキして。

 

そしてその総てが。

 

突き刺さるように。

現実を知らしめる。

 

 

無数の破片となって、降り注ぐ。

避けようもない程、無数に。

雨の様に、無防備になった心に。

 

そして。

 

耐えきれなくなったのだ。

 

 

どうしていいのか解らなくて。

この痛みをどうしていいのか解らなくて。

 

楽しかったのも事実で。

だからこそ辛くて。

何を言っていいかも解らなくて。

ベッドに潜っているうちに、呼吸すら出来なくなってきて。

 

衝動的に飛び出したのだ。

 

闇の中なら、何も見なくて済む。

森の中なら、安心出来る。

 

落ちつけば戻ろうと思って。

 

だが。

 

 

 

見つかってしまったから。

 

 

整理の付いてない心のまま、こうやって養父の腕の中で。

ズクズクと鈍い痛みを放ったままで。

 

 

何も出来ないから。

どうしようもないから。

 

ただ、瞳を閉じた。

 

 






背景素材提供 NeckDoll 様