蝋の翼(1)

 

 『森には魔が潜む』

 

 くだらない迷信だと思っていた。
 子供を森に近付けない為の、世迷言だと。

 そう思っていた。

 

 

 あの日、私は親と喧嘩をして家を飛び出した。
 そしてそのまま、森へと足を踏み入れた。 

 薄暗い森の中、木々の影や不意に鳴く鳥の声に怯えている自分を自覚して。まだまだ私も幼いのだ、と一人自嘲気味に北叟笑んだ。
 そして、その幼さは強がりに変わり、意地に変わる。
 家を飛び出す直前に交わした親との会話を思い出し、帰らないと意志を固めて。
 それは、幼い子供の我儘。
 それを解らないでいるほどには、子供ではなかった。
 解っていながらも、それでも。
  それでも 足は止まらない。

 奥へ。

 奥へと。

 

  森は怖い所だ、と 本能が訴えている。
 しかしそれでも。依怙地になってしまっている私には、家に帰るという選択肢は存在しなくて。

 ただ。奥へ、奥へと。

 突き動かされるように。


  

 「人間、迷ったか?」

 

 声が。
 頭上から。
 動き続けていた足が、まるで根でもはったようにぴたりと止まった。
 そして身体は硬直する。



 『人間』と呼びかける者が人間な筈はない。

 

 

               『森には魔が潜む』

   

    

 ぐらり、と 視界が歪んだ。

   

§§§§   

  

 「迷ったなら、そこの赤い実のなっている木より引き返せ。
  まっすぐ行けば細い川に出る。川を辿れば湖に行き着く。

                 そこまで行けば、後は帰れるだろう?」

 

 頭上の声は、なんの感情も込めずに。
 そこには、敵意も、殺意も、興味すら。
 早く、何処かに行け、と。ただ、それだけ。

 肩透かし。ホッとしたのと同時に、足に少し力が戻る。
 身体の緊張も緩んだ。

 そして、私はやっと。


 頭上の、声の方を見遣る事が出来た。 

 

 太い樹の枝に身体を俯せに横たえて、こっちを見下ろしている 瞳。


 その瞳と。

 目が合った。


 銀の髪と、金の瞳と、青い肌の 『魔族』。

 

 口元がほんの少しだけ持ち上がり。



 

 笑う。


 

 そして。

 私は『魔』に魅入られた。

 

§§§§

 

 教会で、『魔』とは禍々しいものだと教えられた。
 それは、とても醜いものだ、と。

 しかし現実は。

  

 私はこんなに美しい生き物を見たことがない。

 

 柔らかそうな銀の髪も、猫のような金の瞳も、冷たそうな青い肌でさえ。  

 

 「どうした?娘。 取って喰ったりせんよ」

 

 形の良い唇が言葉を紡ぐ。耳心地の良い低音が耳朶を打つ。
 ぶらぶらと持て余すように投げ出していた腕には、赤い林檎が。
 それを口元に運んで、しゃりり、と噛んだ。

 それだけの。

 その撓やかな筋肉の動きに目を奪われて。

 

 ああ、これは 『魔』 なのだ、と。
 これが 『魔』 なのだ、と。

 

 誘うかのように。過妖な色気すら漂う、歯形の付いた林檎。

 

 「喰うか?」

      

 差し出されて。

 私はそれを見遣りながら。

 

  

  「・・・・・・・・・蛇なのね」

 

 

 そう、それは正しく禁断の果実。

 楽園で禁忌を犯すよう誘惑する 蛇。

 

  そして、人は。

 

  その誘惑に逆らえるようには出来ていないのだ。

   

§§§§ 

 

 楽園を追放されたら。

 もう戻ることは叶わない。

 

 けれど私は。

 

 その禁断の果実を受け取って。

 その歯形にそっと唇を寄せて。

 

 ----------------------------------堕ちた。                                           

 

 

 

   







背景素材提供 Miracle Page