蝋の翼(2)



 『森には魔が潜む』

 それは真実。
 『魔』は森に確かに。

  

 私は森に通うようになった。
 男はそこが気に入っているのか、大体いつも同じ樹の枝の上で寝転んでいる。
  話しかけても応えてくれないことも、しばしば。
 それでも私は構わなかった。

 家のことや、友達のこと、飼っている犬のことや、教会のこと、そんな取り留めのないことをただ一人、喋っていた。
 彼の寝転ぶ枝の下に。ぺたりと座り込んで。
 目を合わせるわけでもなく。何か返事を期待するわけでもなく。 

 時々頭上で笑い声がする。
 見上げると、猫のよう。目の細め方も、瞳の色も。
 

 「樹の上で笑う猫なんて、チェシャ猫のようね」
 

  私は見とれていたことを悟られないように視線を反らして、また つまらない話を始める。  

 いつまでこうやって、一人で話し続けるのだろう?
 だけどソレは心地よくて。 

  私は今まで存在しなかった、私の居場所を手に入れたような。

 そんな気持ちになっていたの。 

  

§§§§

  

 馬鹿な娘が一人、森に入り浸っていることなんて。
 そんなこと、すぐに噂になるに決まってる。
 当然、私は叱られて。
 窮屈な自室に監禁状態。
 窓から見える森は相変わらず禍々しいほどに黒く繁っている。 

 あの中に貴方がいる。
 

  私はガラスに額を押しつけながら、溜め息を落とした。
 歩けば30分もかからない距離なのに。
 今の私には遠くて仕方がない。

 

  私達を遮っているものは何?

 

  産まれ育ったこの家は、私の居場所ではないの。
 私の居場所は、ここではないの。
 だからといって、貴方の側が私の居場所だなんて。独りよがりも甚だしいのだけど。
 

  息で白く、ガラスが曇る。
 森の姿が、白く煙る。

   

 ああ、きっと違うんだわ。

 楽園を追放されるのではなくて。

 楽園が窮屈で嫌になるのね。

 

  戻れないのではなくて。



 戻らない。

  

  私は、聖書に隠されている『裏側』を知った。

   

§§§§

  

 監禁は一月を越えた。

 近所の男の子と逢引したとしても、こんなに閉じ込められることなんて、きっとない。
 それだけ森は危険なのだ。 

 そう、今までの楽園を変容させてしまうが程に。  

  変容した楽園は、楽園ではいられない。
 本来なら有り得ないことだって。
 私の踏み出した、新しい世界では。
 起こり得る話に変容する。 

   


  深夜のノック。


 ノックされた場所は窓。
 窓の下には何もない。
 プランターを置くだけの、狭いスペースがあるだけ。 


  窓をノックなんて。

 

  起こり得るはずがない。

   

 だけど私は驚かなかった。

 

  そこに貴方が浮かんでいても。
 まるで約束でもしていたように。
 それが当然だと言うように。

  

  「遅いわ」

 

  私の第一声に、木の下から見上げてしか見たことのなかった貴方の笑顔。
 そして貴方は何も言わずに、手を私に差しのべる。

 

  私達は手を繋いで。



 窓の外へ、ふわり。


   

 けど、おかしいわ。私ったら。
 まだ、貴方の名前すら知らないの。

  

 なのに解っていたのよ。

 

 貴方が私にとって禁断の果実であるように、私は貴方の禁断の果実だ、と。

 

 







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