毒姫


(一) 雹

  

 灯り一つ差し込まない。
 湿った空気と、黴の臭い。
 地下室独特の 『それ』 に混じる、刺激臭。

 そして、そんな部屋に取り残された女と死体。
 それが、その部屋に存在する全てだった。

 

  蝋燭の灯りが私の動きに連動して、ゆらゆらと揺らめいている。
 女はそこに倒れていた。
 横には死体。
 一瞥しただけではどちらが死体で、どちらが生きているのかすら判別が付かない。灯りを近づけて、その胸が上下しているのを確認してから、私は女に近付いた。
 女はその間、呼吸するという最低限の動き以外、ぴくりとも動かなかった。隣でくたばっている死体と同じ場所に、既に片足以上突っ込んでいるようだ。

 手遅れかもしれない。

 そう思いつつも、それならば仕方がないと諦めてもいた。
 憤慨しつつも、その全てに諦念してしまっている。
 それは長年、忌野で生きてきた私に染み着いた妄執だ。
 それを振り切るように片手に持っていた水差しの水を、直接女の唇の隙に少量ずつ流し込む。
 音もなく流れ込んでいた水が、そのうち唇から溢れ、口角から喉元へと零れる。その水の気配に感覚が戻ったのか、女は二度ほど喉を嚥下させてから噎せた。

 暫く噎せ続けているのを眺めてから、顔を上げるのを見計らって、水差しごと手渡す。女はただ無言でそれを受け取って、力の殆ど籠らない震える腕で水差しを口元へと自力で運んだ。
 音のない部屋に、女が水を嚥下するその音だけが響く。

 突っ込んでいた片足が、少しずつこっちに戻ってくる気配を感じながら、戻ってきても辛い現実が待っていることを知っている私は、ただ自分のエゴに罪悪感を抱いていた。

  このまま大人しく、死なせてやればいいのに。

 頭の片隅で理性が囁く。
 そして理性を感情が否定して、私は暴挙にでる。

 そう、これはいうなれば暴挙だ。

 矛盾と憐憫と自己愛の、究極のエゴだ。

  

 空になった水差しが、コトリと音を立てて床に置かれ、女はやっと上体を起こし私の方を向いた。
 蝋燭の不安定な灯りの下に、女の容姿が浮かび上がる。
 一週間、何も口にすることの叶わなかった女の外見は、酷く窶れ、目は落ち窪み、顔色は悪く、肌はまるで老人のようだった。

 それでも、その女は美しく見えた。

 本来の容姿は固唾を飲む程のものだっだろう。
 過去を忍ばせることが出来るだけ、女の今の外見は痛ましかった。

 

 「・・・・雪薇」

 

 女の名前を呼ぶと、女の落ち窪んだ瞼がぴくりと反応を返した。
 瞳は静かに蝋燭の灯りを写し、そしてそれを持っている私へと移動した。

 「・・・・あ・・・・う・・・・」

 女の口から零れたのは、たったそれだけの言葉にもならない音。

 しかしそれだけで、私の眼球は酷い刺激を受けて涙腺が涙を溜め始める。視界が歪み、ぼやけるのが酷く忌ま忌ましいが、それに構わず私は膝をついて女と視線をあわせた。
 女との距離が縮まった分刺激は更に強くなり、目を開けていられなくなるが、それでも目を瞑むるわけにいかず、女を見ないで済むわけにはいかず、私は視界に歪む女を写し続けた。

 

 「私は雹。お前に時間を与える者」

 

 名を名乗ると、この名を知らぬ筈のない女の身体は、力など殆ど残っているはずもないのに緊張の色を見せ、折角起こした上体を再び床に付けんばかりに伏せる。
 上体を起こしたままの体勢より、寝ている方が身体に負担は少ないだろうと見当をつけ、顔をあげろとは敢て言わなかった。
 ただ伏せた項から覗く、痛々しいほどに窶れ骨ばった身体に心が痛んで私は知らずに手を伸ばしていた。
 指が、髪に触れる。
 暫く髪を洗うことも叶わなかったため、脂ぎったその髪は私の指に瞬間的に痒痛いような刺激を与えてくる。ぴりぴりと、ちくちくと、鬱陶しい刺激にさいなまれながら、私は女の髪を指で梳いた。

 

 「選べ、とは言わない。
         私はお前に与えるだけだ」

 

 ただ蹲り、私にされるが儘に身を任せ、頭の上から落とされる言葉に肯定も否定もするわけでなく、ただ神託の様に聞いているその姿は、忌ま忌ましいほどに自分の姿と被り、私は嫌悪感に何度目かの溜め息を零さずにはいられなかった。

   

 部屋を出るとまだ刺激によって涙の止まらない眼球を洗う。今まで着ていた服を全て、焼却処分のダストシュートに突っ込んで、皮膚を消毒するため、地下室の斜め前に備え付けられた滅菌室に入り、息を止め、15秒消毒のガスを浴びる。
 滅菌室から出ると慌ただしく駆け寄ってくる側女から解毒剤を受け取り、水と共に嚥下する。
 用意された、新しい服に着替える頃、利き始めた解毒剤に身体が焼けつくように熱くなってきた。
 ソレに耐え切れず、廊下の突き当たりにあるトイレに駆け込み、そのまま吐いた。その後蛇口から水を飲み、それを全て吐く。
 吐き気が収まった後、再び廊下に戻って、そこで待っていた医療班の人間に言われるまま内蔵を洗浄する。口から管を突っ込まれ、再びげえげえと吐いた。

 

  全ての洗浄が終わった後、鏡に写った自分の姿は酷く窶れ果てた無様さだった。

  

          §§§§§§§§§§  


 毒姫。
 それは暗殺(毒殺)を生業とする寵女だ。
 赤子の頃から徐々に毒に対する耐性をつけ、慣らし、全身を猛毒とする。
 涙、汗を含む全ての体液が猛毒と化すまでに、耐性の弱いものは死に、また毒が脳に回って狂う。生き残れる人間は三十人に処方して、一人いるかいないか。
 そのうち、正常な思考能力を保持しているものは、更にほんの一握り。
 狂った暗殺人形。
 その腕は人を殺すためだけに。
 その接吻は死の誘い。
 夜伽は相手にとって文字通り最期の夢と化す。

 それが毒姫。

 そしてそれが女の正体だ。

  

 女、雪薇は毒姫としては優秀だった。
 いや、優秀過ぎた。

 誰もが彼女に期待していた。
 ここ暫く毒姫はその成長過程で死んでいて育っていなかった。
 効率が良いとは、世事にも言えない製造なため、ここ忌野でも今では過去の遺物と成り果てかけている。

 そんな中、雪薇は最後の毒姫と言われていた。

 赤子の頃から毒に耐性を持ち、生き延びてきた。
 思考も発狂することなく、正常で、容姿も申し分なく、雪薇が成功すれば再び毒姫を育成する有効性に目が向けられていたかもしれなかった。

 少なくとも、毒姫を長年育成してきた下忍達にとっては雪薇は期待の星だった。

 しかし、彼女は期待に答えることが出来なかった。
 いや、応えることが出来なかったわけではない。

 彼女の応えすぎてしまった。

 

 彼女は優秀過ぎた。
 そう、優秀過ぎたのだ。

 

  本来毒姫は、体液を相手に混入することで相手を死に至らしめる。
 しかし雪薇の身体の毒は体液だけに収まらなかった。

 彼女が身体に溜め続けた毒は、呼吸に混じり、皮膚の表面に浮き出る油に混じり、彼女が生み出すことの出来る全てのモノに混じった。
 その毒性は極めて高く、その当時で彼女と同じ部屋に一時間もいただけで意識が混濁、そして昏睡に落ちるほどだった。

 暗殺になど使えるはずがない。

 彼女は一人で、生物兵器と化してしまった。
 しかも、敵だけでなく味方にも有害な。

 

  これがまだ軍隊ならば使い道もあっただろう。
 しかし此処は暗殺を主とする、隠密業を営む、忍びという世界だ。
 彼女はこの世界では、手に余り過ぎた。

 彼女はここでは、有用ではなかった。

 

  そして、決が出された。

 彼女を始末しよう、と。

 できる限り秘密裏に始末をしたかった毒姫育成の下忍は、彼女に刺客を放った。しかし彼女が暫く籠っていたその部屋は、彼女の身体から溢れ出す毒によって汚染され尽くしていた。
 そして刺客は彼女の部屋に入り、彼女を殺す前に自分が命を断たれてしまった。
 無駄死に以外の何物でもないソレを、報告しないわけには行かず、渋々ながら報告した結果、出た決は餓死させること。
 下手に殺すと、彼女から出る血を含む体液などで毒物が辺りに撒き散らされ汚染される恐れがある。それの処理の手間と、彼女の有害性がその処理法を導かせた。

 そしてその決から、彼女は一週間、監禁されていたのである。

 そしてその報は、違う仕事を片づけていた私の耳に、偶然入った。

   

          §§§§§§§§§§

  

 介入から五日。

 

 連日食料、水、と与えるために彼女の元へと訪問している私の外見は、彼女の身体から分泌される毒物の中毒症状と、それらを洗浄する極度の医療行為で酷い有り様だった。
 彼女に触れる指は、赤く被れ、アトピー患者のソレの様に瘡蓋の下にじくじくとしたリンパ液を滲ませている。傷口を嘲笑うかのように侵す毒物が、そこに膿を溜め、皮膚の表面の水分を奪い尽くそうとしている。
 洗浄行為によって傷ついた食道は、固形物の嚥下を拒み、低下した食欲に拍車をかけていた。
 強すぎる解毒剤はソレ自体が酷く身体に負担をかけ、体力を悪戯に奪う。

 そんな自分の姿をぼんやりと鏡の中に眺めて、失笑を噛み殺した。
 

 鏡の中には、酷く窶れた自分がいる。 
 この容姿では、暫く恭介に会うことは叶わないだろう。
 治るのにどれだけ時間がかかるのか考えて、そして再び、失笑する。
 その外見は、自分にとって酷く懐かしいものだった。

 自分は昔『毒姫』であった。

 そう、自分は昔『毒姫』であったのだ。

  

  生まれつき未熟児で、いつまで生きられるか解らなかった私。
 その私を、どうせ死ぬのならばと半ば人体実験のように、毒物耐性、免疫強化のために毒物を服用させた父。
 そこに流れていたのは、毒姫育成の脈だった。

 私は何度も死にかけながら、生き抜いた。
 お陰で、ある程度の毒には全て耐性がある。
 私を毒殺しようとすれば、それは致死量をはるかに超える毒物を投与する必要があるだろう。

 そう、私は女と幹を共にする者だ。

 溜め息と共に自分の髪を掻きあげて、その感触がすっかり変わってしまっていることに気がついた。潤いを失っている髪は、ギシギシと指に絡まり、艶もない。
 一体どっちが看病されている人間なのか、外見からは既に解らない。
 その事実は失笑以外生み出すことがない。

   

  何故、このようなことになったのだろう?

 思い返してみる。

 全く面識のなかった毒姫など、見捨ててしまえば良かったのに。
 忌野という組織の中で、無駄に死んでいる人間は大勢いるだろう。
 それこそ育成の途中、任務の途中、理不尽な仕事や事故、無駄死にを強要されることもあるだろう。

 珍しくも なんともない。

 別に、今回の毒姫への対応が他の事例に比べて、格別酷だとか、そういうわけでは全くない。
 言うなれば、これはただの自己満足だ。
 自分勝手な上司が、勝手にしゃしゃり出て引っかき回している、下の人間にとっては迷惑以外の何物でもない茶番劇だ。
 下から見れば、世間知らずも甚だしい次期頭首が、訳知り顔で処遇に文句を垂れている、という馬鹿馬鹿しい構図。

 解っている。

 解っているのだ。

 それでも、放っておけなかったのは・・・・
 ただ、女が自分と重なって見えたからに他ならない。 

 組織に育てられ、その素質に期待をかけられ、望まれるまま育ち、こなし、それでいて優秀過ぎて斬り捨てられるアイデンティティ。
 それは余りにも自分と重なるのだ。
 優秀過ぎて 優秀過ぎて、手に余るから処分される。

 

 お前たちが望んだのだ。
 私達はそれに応えるしかなかったのだ。
 応えなければ処分される。
 そして応えれば応えたで、手に余ると烙印を推される。

 一体どうすれば良いというのだ?

 一体どうすれば認めてくれるのだ?

 忌野という組織は『優秀』を良とするのではないのか?
 その力が過ぎてしまえば、不良なのか?
 使う人間の力量が足りないだけなのではないのか?
 なのに、斬り捨てられるのは私達で、力量不足な者は安泰なのか?

 搾取され 搾取され 搾取され、絞り尽くされたカスの様な中身をかき集め、守り通し、縋り付いて、やっと手に入れたその場所を、余りにも簡単に呆気ないほどに、処分という形で闇に葬る。

 私達はいったい何のために産まれたのだろう?

 

 そう、女を救うことは、私自身を救うことと同義だった。

 

 これは、ただの、自己愛だ。
 ソレを自覚していて、そしてソレが酷く悔しくて、他人に投影してしか抗うことの出来ない自分に辟易して、それでも手を差し伸べずにはいられなかった自分の弱さに嫌悪する。
 意味のないことをしているのは重々承知で。
 それでも、無視することの出来なかった幼稚な心根に絶望しそうになる。

  

  鏡の中に写る酷く醜い自分を眺めながら、ただ、懊悩するしかないそんな自分にもまた辟易する。
 誰に言われなくとも、自分が一番みっともないことを自覚しているのだ。そう、自覚していて尚、その行動に対して明確な答えを出せずにいる。

 手を出してする後悔と。
 手を出さずにする後悔と。
 どちらがマシなのかは、見当もつかない。

 

 そして結局、唯一出来る失笑を浮かべるのだ。

 

          §§§§§§§§§§

 

 一週間もすると、女の外見は随分と見られる様になっていた。
 今では訪問する自分の方が痛ましい。
 訪れると女は顔をあげて、嬉しそうに微笑みを向ける。
 そして、できる限り、呼吸が当たらないようにそっぽを向く。
 何か喋ろうと唇を動かして、けれど何も喋らずに噤んでしまう。
 その呼吸にすら混じる毒を嫌悪しているのだろう。  

 「別に構わない。口を開け」

 私の許可を以て、やっと女は口を開く。毎回、この繰り返しだった。
 私の許可がないと女は決して喋らない。
 訴えたいこともあるだろう。
 理不尽な仕打ちに対する恐怖、怒り、愚痴、なんでも喋りたいことはあるだろう。それでも、黙ってしまうのは女の持つ体質故か、それとも私のもつ次期頭首という肩書故か。 

 女は口元を手で覆い、できる限り自分の毒が私の方へと来ないように気を使いながらたどたどしく言葉を紡ぐ。
 私が来訪したことへの感謝の言葉。そして今日の体調。私に天気のことを尋ね、「晴れだ」と応えると眩しそうに天井へと視線を這わせ、「雨だ」と告げると身体全体で滴を受け止めようとするように両手を開いて天井を仰いだ。
 毒姫は換気施設の完備されたこの地下から殆ど出てこない。
 女が実際の太陽や雨を見たのは、数える程だろう。

 喋りながら、出来るだけ自分の生み出す毒が私を傷つけないように、じりじりと壁際まで下がり、狭い空間の中でなんとか距離を空けようとする女を半ば追いつめる様に詰め寄って、何度も自分は免疫が通常の人間より強いから大丈夫だと説いて聞かせた。
 何もない伽藍とした光も差し込まない地下室の隅で、自分の有毒性に脅える女と、その身体を支えてやりながら耳元で「大丈夫だ」と囁く男。
 彼女が落ち着き、その身体を預けてくれるまでその髪を撫で、何度も何度も「お前は有害な物などではないよ」と説いて聞かす。

 その様は、恋人同士の甘美な様にも見えなくはない。

 実際は身体の細胞が沸騰するかしないかの瀬戸際での、茶番劇でしかなかったが。
 それでも、その茶番劇を享受してしまう程に、私は自分と境遇の被るこの女に想いを裂いてはいたし、女もまた、そんな私の馬鹿馬鹿しい自己満足を見破って、浅ましいと批難できるほど余裕はなかった。
 私は、自分と同じ境遇で私が守れる弱者ならば、別に他の誰でも良かったし、女もまた、こうやって面会に来る危害をくわえない人間ならば別に私でなくとも構わなかっただろう。

 ただ、偶然、それが私達であっただけの話。

 そう、それはただの偶然。

 偶然を運命と呼ぶか。運命を偶然と切り捨てるか。偶然を必然だと思うか。それは人それぞれだろう。

 

 「お前は有害な『物』などではない。
          お前は『不要な物』ではないよ・・・・」

  

 紡いだ言葉が、女に宛てられた言葉なのか自分に宛てた言葉なのか解らなくなる。
 だがそれでも呪文のように繰り返して、私達は濃密な時間を過ごした。

 

          §§§§§§§§§§

 

 女に異変が見られたのは、それから三日後のことだった。

 

 カタカタと震える身体。
 ヒューヒューと漏れる息。
 自分で自分の身体を抱きしめるようにしながら、女は蹲っていた。  

 私の要請で全身に防護服をまとった忌野の救護班が到着し、女の身体を調べる。
 私は手渡された酸素吸引器を使いながら、まるで物の様に扱われる女をただ眺めていた。
 防護服をまとった人間は、人間ではないもののように見えた。
 そしてそんな者達に取り囲まれる女は、まるで珍獣であるかのように見えた。

 医師達のすき間から、女は私をじっと見ている。
 私も、その瞳をじっと見据え返した。

 その視線は、女が生産できる唯一の毒を含まないもの。
 私はそれを受け止めながら、目覚めかける諦念の意志を必死で押さえ込んでいた。

  

 「あの女はもうすぐ死にます」

 「・・・・そうか」

 淡々と、業務報告として告げられた医師の言葉に私は、ソレ以上に淡泊な音で返事を返した。
 私はただ、女の寿命を悪戯に数日伸ばしたに過ぎなかったわけだ。

 その事実は馬鹿馬鹿しいようで、また、酷く羨ましくもあった。

 結局女は、こっちの世界に戻ってくることはないわけだ。
 人を殺すために作られて、人を愛せず、人に触れれず、人から愛されず、奪うことでしか必要とされない。そんな世界から、女は抜け出せるのだ。
 私が未だに捕らわれて、掬われて、雁字搦めになっているこの世界から、降りることを許可されたのだ。

 それは、正直、羨ましかった。

 羨ましくて、妬ましくて、そして、酷く寂しくなった。

 結局、抗うことが出来ずに流されるだけの結果に、諦念は否応なく頭を擡げて私を責めた。

 

  生ワクチンと同じ効果で、病原体を少量打ち込むことで免疫力をつける治療法がある。敢て毒を取り入れることで、免疫を活性化させる治療法がある。
 女は常に毒物を摂取していて、女の免疫は摂取する度に活性化されていた。しかし此処数日絶食が続き、それ以降は一切の毒物を断っていた女の身体は、暴走し始めていた。
 女の身体に溜っていた毒物に免疫は圧され始め、自分の身体が生み出す毒で女の身体は焼かれ始めた。
 それは、癌細胞によって自分の身体が侵されるように。
 今まで平気だった毒が、免疫が低下した身体を攻撃する。
 それは、瞬く間に女の身体を侵食し始めた。
 女の身体は自分の生み出す毒に、侵食され、搾取され、略奪され、陵辱される。そう、今まで、自分が無理矢理摂取させられ続けた、溜りに溜った毒物によって。

 そこに、女の自由意志は存在しない。

 そこに私の意志も存在しない。

 あるのは、結局逃れることの出来なかった、忌野(社会)という名前の一本のレール。そしてそれは、綺麗な言葉で運命だとか称される、この狂った裏社会の勝手な理屈。

 

  扉の向こうで、女のヒューヒュー言う呼吸の音が聞こえる。
 それを聞きながら、私は硬い扉に額を押しつけた。
 冷たい温度と、硬い感触が、頭蓋を通り越して脳髄をひんやりと冷やす。その温度を感じながら、私はどうしようもない気分になって、少しだけ笑った。

 誰にも見せることが出来ないくらい情けない顔で、私は、笑った。

 

 最初から期待など存在していなかったのに。
 見捨てた所でどうということのない命なのに。
 所詮抗うことの出来ない運命だったのに。
 それでも、私はこんなにも追いつめられてしまう。

 一体、何に期待していたと言うのだろう?

 一体何を望んでいたのだろう?

 一体どんな結末を夢想していたのだろう?

 

 ひんやりとした扉の感触が、徐々に私の体温を吸収して温度を同じにする頃に、私は顔を上げた。

 

 それが運命だと言うのなら。
 それがこの社会のルールなのなら。

 

 私は私に出来る唯一の方法で、抗うしか出来ない。 

 




背景素材提供 Miracle Page