(二)
ヒュンケルは最近、私を避けている。
日常生活は、今まで通り送っているけれど。
ふ、とした瞬間に目を反らす。
今までは食事の後の、穏やかな時間。
特になんの話をするわけでもなく、他愛無くお喋りしていた時間がすっかり。無くなっている。
夜間の外出も多くなった。
それも、私が寝静まったのを見計らって。
最初はまた、ヒムやラーハルト辺りと修行にでも行くのかと思っていた。
だけど時間が経過して、そんな素振りもなく。そしてその不自然さは継続されている。
私は何をしたのだろう?
考えても。
考えても。
結局、答えは出ない。
そして、ヒュンケルに問い質そうにも。
その勇気は湧いてこない。
もしかしたら嫌われてしまったのかもしれない。
もしかしたら他に好きな人でも出来たのかもしれない。
どんどん不安になって。
そして、どんどんイヤな想像をしてしまって。
確定してもいないのにやきもちを妬いて。
一言でいえば、不安定なのだ。
「うん。見たら解るわ。そんな感じだもん」
丁度、昼休み。
なんとか時間の都合を取ってくれたレオナは、生クリームのたっぷり乗ったワッフルを美味しそうに食べながら、うんうん、と頷いた。
大きな口を開けないと食べれないモノなのに。
レオナは気品を失わないで食べ進めていく。
これはもう、持って生まれた物なのだろう。
ソレを持ってない私は、出来るだけ小さくワッフルを切り分けて食べるしかないけれど。
切れば切るほど、お皿の上でワッフルは見るも無残な姿になっていく。
ぐちゃぐちゃ。
まるで、今の私の心模様のよう。
「私がそれとなく探ってあげましょうか?」
皿から顔を上げると、そこにはにんまり笑うレオナの顔。
楽しんでるように見えるわ。
半ば呆れながら、それでいて冗談と捉えてくれるこの感覚は。
神経質になりすぎてるのかも、という余裕を与えてくれる。
「まぁねぇ。ここ暫く忙しかったから、随分とこき使っちゃったし。疲れてるのかもしれないわね。
そうゆう姿、見せたくないんじゃない?ヒュンケルって見栄っぱりだもん。
それになんだかんだ言って、男の友情ってあるもんなのよ。女の友情みたいにさ。
異性には入り込めない壁っていうのが存在するもんなのよねぇ。
まぁ『にぃにぃ』も今、アレでしょ?
心配にもなるんじゃない?様子でも見に行ってるのよ」
レオナが『にぃにぃ』と呼ぶのはラーハルトのことだ。
ダイの義兄だから、ということらしいのだけど。
呼ばれる度にラーハルトは露骨なまでにイヤそうな顔をする。
そのラーハルトが不眠症を患っている、というのは暗黙の了解で誰も口にはしないが。衆知の事実だ。
ヒュンケルは元より、ダイも、エイミさんも。少なからず私やレオナも心配している。
「でも、まぁ。
他に好きな人が出来たっていう線はないわね。絶対。断言できるわ。
なんなら命賭けてあげてもいいわよ?
あの男が貴女以外好きになるなんて、天変地異が起こってもないわ。
ぞっこんだもの。ぞっこん。
今時使わないわよ?『ぞっこん』なんて。
だけど今時使わない言葉使っちゃうくらい『ぞっこん』だから。その点心配すんのは止めなさい」
びし、とフォークを突き付けて。
レオナは真剣な顔で言いきると。
また何時もの顔で、にっと笑う。
ころころ変わる表情豊かな顔に励まされて、私はすっかりぐちゃぐちゃになってしまったお皿の上を片付けることにした。
焼きたてのワッフルは、姿こそ滅茶苦茶になっちゃたけど。
表面はサックリと、中はふんわり。生クリームが甘くとろけて。
単純だけど。
幸せな気分になった。
「そうそう、笑いなさい。
貴女に心配そうな顔は似合わないわ。というより、女はそんな顔してちゃ駄目。
幸せが逃げちゃうのよ」
確かにそうかもしれない。
彼女は何時だって笑顔だし。
そして彼女に不幸は似合わない。
しかし。
「この後クレープ食べたら太るかしら?」
言った矢先に顔を苦悩に歪ませて。真剣そのもので言うから。
堪え切れなくて、私は噴出し笑った。
§§§§§§§§§§§§§§
結局クレープは二人で半分こにして、「太る時は共犯ね」と指きりをして別れた。
しかし彼女の激務を考えれば、太ることなどないだろう。
太るとすれば、それは二人共倒れ、ではなく私だけ。
戦いが終わって、なまらない程度には動かしているけれど。
それでも。気にならないと言えば嘘になる。
昔は体型のこととかも、そんな気にならなかったのに。
全て、ヒュンケルの所為だわ。
それは決して悪い変化ではないけれど。
好きになった人に、ずっと好きでいて貰う為に綺麗でいたいと願うのは、変なことじゃない筈。
しかしそこで思考はまた止まってしまった。
これはずっと考えないようにしてきたことだけれど。
ヒュンケルは、自分に触れようとしないのだ。
それについては、きちんと彼は理由を述べた。
『結婚前の大事な時期に手を出すことは出来ない』と。
『大事だからこそ傷つけることは出来ない』と。
それはとても彼らしくて。
私はあの時、笑ってしまったのだけど。
時に、その戒めは私を切なくさせる。
堪らなく、不安にさせる。
ヒュンケルが大事にしてくれているのは痛いほどに解っているが、それは真綿で首を絞めるようなもの。
大事に大事に。
しっかりと包まれた私は息が出来なくなってしまいそう。
包まれた指は彼には届かず。
包まれた身体には、彼の体温は届かず。
声は遠くに。
戦いの間にはなかった、この穏やかで柔らかな壁は。
柔らかな分、どんな衝撃も吸収して。
私達の間にどっかりと立ち塞がっている。
もし、彼に触れられるとして。
それは私を傷つけることになるのかしら?
勿論、初めての行為に対して、全くの恐怖がないと言えば嘘になる。
話を聞けば『痛い』と皆が言うし、本を読んでもそれはどうしても苦痛を伴うようだ。
だけど例え苦痛だとしても。
彼が私と向き合って与える苦痛ならば、怖くはない。
それは傷にはならない。
こんな風に向き合わないで、避けられる痛みの方が遥かに苦しい。
自然と溜息が滑り落ちて行く。
そして落ちた溜息は何処にも行きつかないで、足元に溜まっていく。
いつか溜息に埋もれて窒息するわ。
馬鹿馬鹿しい発想が笑えないくらい。
私は項垂れて、お城を後にした。
§§§§§§§§§§§§§§
「はいほー。にぃにぃ」
「…はいほー、小娘」
時間は三時ちょっと前。
毎日ラーハルトがダイの為にお菓子を作るのを見計らって、少女はやってくる。
勿論、ダイの顔を見ることが第一目的なのだろうけれど。
それでも、ラーハルトのお菓子も決して外せない目的だったりする。
「私、お昼にワッフルとクレープ食べちゃったのよね。
おやつ、カロリー控えめにしてくれない?」
「はぁ?」
振られる我儘に、険悪な顔で返すけれど効果はない。
にこり、と笑われて。
「今から作ったら、少し時間かかるぞ?」と溜息混じりに結局折れる。
「いいわ。その間、仕事さぼれるし。のんびり作って」
この国は大丈夫なのだろうか、と思う反面、彼女の聡明さも知っているので。
そしてこの国がどうなろうと知ったことではないので、ラーハルトは一度だけ肩を竦めてシンクに向かう。
オーブンの中には、本来今日のお菓子の予定だったタルトがもう少しで焼ける所だったのだけど。
まぁ、ディーノ様は食べるだろう、と割り切る。
いつもなら、自分に挨拶をすればすぐにダイの元に向かう少女が今日はダイニングに座ったまま動こうとしない。
ゼラチンを湯で溶かしている間に振り返れば。
どんぴしゃのタイミングで口を開いた。
「ねぇ。ヒュンケルなんだけど」
「ヒュン?」
少女の口から出てくるにしては珍しい名前に、ちょっと吃驚した。
とはいっても、彼女の国の騎団長を務めている男だ。
話題になってもおかしくはないのだけど。
ここ最近の、あの阿呆のことを知っているだけ。
ひょっとすると、いきなり辞表でも突き付けたのかもしれないと。
(それなら、あのピンク頭と何処かで隠居するつもりだろうから、あの無限愚痴スパイラルから解放される俺としては万々歳だ)
予想を立てた。
しかし。
「最近、様子が変みたいなのよね。マアムが心配してるんだけど、何か知らない?」という、俺にとってはどうでもいい。
毒にも薬にもならない話だった。
「アイツがおかしいのはいつものことだろうよ」
何がおかしいって、生体がすでにおかしい。
存在がおかしい。
突っ込むのも馬鹿馬鹿しい程に、至る所がおかしいのだ。
「マアムはね、ヒュンケルが浮気してんじゃないか、て心配してんのよね」
噴いた。
それは何でも、想像力が豊かすぎる。
「ねぇだろ。絶対に」
「まぁねぇ。私もそう思うんだけどさぁ。万が一ってあるじゃない?」
「ない」
あの阿呆に限って、それはない。
メダパ二食らってもないだろう。
「そっか…まぁ、そうよね〜…
…だけどそんなあり得ないことでさえ想像して不安になっちゃってんのよ、あの子」
「平和。平和だねぇ。全く」
そんなくだらないことで不安になれるのは平和な証拠だ。
そう言うと、少女は視線をきつくする。
「くだらなくなんかないわよ!一大事じゃないの!」
「はいはいそうですね。一大事ですね。大変ですね。困りましたね。
これだけ同意を返してやれば満足か?」
ぷぅ、と子供らしく頬を膨らませて。
そんな顔をしていれば、年相応なのに。
年相応ではいられない立場を思えば、そんなコレも良い気晴らしになっているのかもしれない。
少女には、こんなくだらないことで悩むことなど許されないのだから。
「不安なら、ヒュン坊に直接聞けばいい」
「それはそうなんだけど…なかなかソレも出来ないみたいなのよね。
ヒュンケルも最近マアムを避けてるみたいだし」
あの阿呆は嘘ひとつ吐くのが下手くそなのか。
どんな生き方をしてきたんだ?
いや、違うか。
あの女のことだから、か。
行きついて、脳裏に浮かぶ憎たらしい面を思い切り殴りたい衝動を抑える。
「だから、にぃにぃ…一肌脱いでやってくれたりなんかしちゃわない?」
微妙に遠回し且つ、断定もしない不思議な言い回しで。
『オネガイ』と頬の横に両手を揃えて小首を傾げる。
本来なら、断る類のことだけれど。
いい加減俺自身、面倒臭くなっていたので。
それにどう転んだところで、結果は見えている。
それをあの馬鹿ひとりが、ああでもないこうでもない、と捏ね繰り回しているだけのこと。
「…いいよ。協力してやる」
俺が笑えば。
応えるように、小娘も笑う。
そしてそこに丁度、ディーノ様がお帰りになった。
「あれ?レオナ来てたんだ。いらっしゃい」
「はぁい、ダイ君」
「ディーノ様、もうおやつ出来るんで手を洗ってきてくださいね」
俺の言葉に、「はぁい」と素直に返事を返して、洗面所に走っていく後ろ姿を眺めながら。
平和。
平和。
眠ってない為、蓄積されたどろりとした疲労が脳髄を溶かすような。
何処か麻痺した感覚に浸る。
「ラーハルト〜!今日のおやつは何〜??」
洗面所から大きな声で。
「フルーツタルトとババロアです」
俺は笑って応えながら。
「やだ、フルーツタルト?ちょっとだけ食べようかしら…」
「お前さ。太るの心配してたんじゃねぇのかよ?」
「だって美味しそうなんだもん」
「まぁ…お前ガリガリだし。少しくらい肉つけた方がいいかもな」
何処までも温くて。
何処までも平和な日常を。
吸収しきれないで、身体のどこかが喘いだ。
背景素材提供 Microbiz 様